松平親貴
豊後杵築藩主
松平 親貴(まつだいら ちかたか)は、江戸時代後期の大名。豊後国杵築藩の第10代(最後)の藩主。官位は従五位下・河内守。能見松平家16代。
松平親貴 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 天保9年5月15日(1838年7月6日) |
死没 | 明治15年(1882年)8月20日 |
改名 | 録之助(幼名)、親貴 |
戒名 | 泰岳院 |
墓所 | 東京都台東区谷中の谷中共同墓地 |
官位 | 従五位下・河内守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川慶喜→明治天皇 |
藩 | 豊後杵築藩主 |
氏族 | 能見松平家 |
父母 | 父:松平親良、母:松崎氏 |
兄弟 | 親貴、永井直矢、西尾忠篤正室 |
妻 | 正室:松平乗懿の長女・ひで |
子 | 親信 |
略歴
編集9代藩主・松平親良の長男として誕生した。母は側室松崎氏。幼名は録之助。
嘉永6年(1853年)2月15日、12代将軍・徳川家慶に拝謁する。同年12月7日、従五位下・河内守に叙任する。慶応4年(1868年)2月13日、親良に代わり上洛し、恭順の姿勢を示した。同年4月9日、親良の隠居により家督を継ぐ。 父が佐幕派であったのに対し、親貴は新政府派であり、同年の戊辰戦争では新政府に与して会津にまで出兵した[1]。
明治2年(1869年)6月20日、版籍奉還により知藩事となる。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県で免官された。同年9月23日、東京に移った。明治6年(1873年)1月22日、権少教正に就任する。明治15年(1882年)8月20日、父に先立って45歳で死去した。法号は泰岳院。墓所は東京都台東区谷中の谷中共同墓地。
栄典
編集系譜
編集脚注
編集- ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、503頁。ISBN 978-4-06-288001-5。
- ^ 『太政官日誌』明治6年、第157号