東をどり
沿革
編集江戸、幕末に興り、薩長の志士を迎え入れたことから、明治に大きな発展を遂げた新橋花柳界。芸の一流を街の目標に研鑽を積み、やがて芸の新橋と呼ばれるようになる。発表の場として1925年(大正14年)に新橋演舞場を建設、その杮落し公演が初回の東をどりである(4月1日[1])。演舞場が東京大空襲で焼失後、1948年(昭和23年)に再建され、第15回公演として東をどりも復活した。川端康成や谷崎潤一郎、吉川英治など文豪の脚本による舞踊劇が話題を呼んだ。男姿の美しい芸者、まり千代の人気により主婦や女学生など幅広いファンを獲得、意欲的な舞台づくりは高い評価を受けた。1982年から毎年5月に4日間で開催されている。
特徴
編集普段は一見さまお断りが花柳界の決まりだが、東をどりでは扉を開き、誰でも気軽に踊りや料理、花柳界を楽しむ催しとなっている。「日本を遊ぶ」を相言葉に幕間には芸者衆の点茶、食は新喜楽、金田中、東京吉兆など新橋料亭の松花堂弁当や酒肴、特別な酒が楽しめる。
脚注
編集参考文献
編集- 岡副昭吾『新橋と演舞場の七十年』1996、ASIN B00DACKB54
- 岩下尚史『花柳界の記憶 芸者論 (文春文庫)』2009、ISBN 4167753928
- 中村喜春『江戸っ子芸者一代記 (草思社文庫)』1983、ISBN 479420177X
- CCCメディアハウス『Pen (ペン) 日本文化の「粋」が息づく花街の秘密』2012、ASIN B007SWLOK8