李孝基
李 孝基(り こうき、? - 619年)は、中国の唐の宗室。北周の梁州刺史の李璋(李虎の四男)の子。唐の高祖李淵の従弟にあたる。
経歴
編集武徳元年(618年)、永安王に封ぜられた。陝州総管・鴻臚卿を歴任したが、罪をえて官位を奪われた。
武徳2年(619年)、劉武周が太原を攻撃すると、夏県の呂崇茂が呼応して唐にそむいた。孝基は行軍総管としてこれを攻撃したが、尉遅敬徳に敗れて、工部尚書の独孤懐恩や内史侍郎の唐倹、陝州総管の于筠らとともに捕らえられた。逃亡をはかって失敗し、殺害された。晋陽が平定された後、死体は取り戻されないまま、葬儀がおこなわれ、左衛大将軍の位を追贈された。諡を壮といった。
子がなく、兄の李韶の子の李道立が後を継いで高平王に封ぜられたが、のちに県公に降格され、陳州刺史に終わった。