杉森 孝次郎(すぎもり こうじろう、1881年明治14年〉4月9日 - 1968年昭和43年〉12月8日)は、日本の倫理学者・思想学者・政治学者社会学者。旧姓は白松(しろまつ)、号は南山

人物

編集

静岡県小笠郡南山村生れ。12歳で同郡賀茂村の医師である白松家の養子となる。14歳で東京に遊学し、上野図書館で独学生活を送った後、独逸協会中学校数学館の第五学年編入試験に合格し、入学をした。その後、医師を目指して千葉医学専門学校に進学したが、進化論の講義を聞いた際「こんな学問があるのなら、医学など学んでいられない」と発意し、2年次に千葉医専を自主退学して白松家から学資援助を含む養子縁組を外された。その後、神田に私塾専修学院を創設。千葉医専退学の理由を杉森は、失恋による哲学的煩悶からとも学生に語っている。[1]

1902年(明治35年)、21歳で早稲田大学高等予科に入学。[2] 片上伸らと同窓で学んだ。[3]1906年(明治39年)、25歳で早稲田大学文学科卒業。学部時代はシカゴ大学デューイに学んだ田中王堂に影響を受ける。田中王堂門下生として、同期の関与三郎、一期下の石橋湛山らと友情を深め、プラグマティズム哲学研究に励み[4]、哲学科次席として卒業した[5]。同年に『早稲田文学』記者を務めた後、1907年(明治40年)4月から早稲田大学文学科講師となる。

1913年大正2年) - 1919年文部省特別留学生としてドイツイギリスに渡り、イギリス倫理思想を学ぶ。イギリス留学の最中には、1914年に片上伸と共著で『プラグマティズム講話』を刊行したほか、浮田和民の倫理的帝国主義論を継承し、1917年には"The Principles of the Moral Empire"(邦訳:『道徳的帝国の原理』1919年)を公刊した[6]。同年には、中野正剛らの東方会に協力をしている[7]。帰国後、1919年(大正)7月から早稲田大学文学部及び政経学部の教授を務めた。1920年代には大正デモクラシー運動の旗手となり、バートランド・ラッセルのプラグマティズムを継承・発展させた。杉森は社会主義研究に力点を置き、イギリスの事例を中心に引用し、機械論の哲学と労働者の権利について論陣を張った。また、『婦人公論』『改造』に記事を執筆し、女性参政権女子教育と男女平等、自由恋愛・女性の性的主体としての権利の哲学を論じ[8]、昭和期には1942年には早稲田女子学生会の会長を務めている。

そのほか、国際主義者としても活躍し、『亜細亜公論』『台湾』に記事を投稿し、日本の植民地であった朝鮮・台湾の民族的自治独立の必要性を主張している[9]。また、1936年には日本とフィリピン間の交換教授となるなど、西洋諸国と比較して低い地位にあった東アジア・東南アジアの民族的自治独立[10][11]を論じた。杉森は広範な論文業績と多彩な執筆範囲を持ち、哲学者・社会学者・倫理学者・文明評論家として活躍した。昭和戦前期にはアジア地域の自主独立に力点を置いた大東亜共栄圏構想を牽引し、日本青年層の支持を集めた。

彼は研究のみならず教務・大学運営にも手腕を発揮し、1934年-44年には第二早稲田高等学院院長をつとめ、1940-1944年には早稲田大学理事を務め、中野登美雄との総長選に敗北して早大を去った[12]。在職中は深く学生を愛し、学生が後から歩いてくると、「後進に道を譲る」といって先にいかせたというエピソードがある。戦後、早稲田大学を退職後には、駒澤大学教授を務めた。

憲法草案要綱」を作成した民間グループ、憲法研究会の7人のメンバーのうちの一人として、日本国憲法の成立の源流を形作った。英語が堪能だったので、憲法草案要綱をGHQに持参することになった。GHQに持参する際は英訳もつけたが、その英訳を中心に読まれたかどうかは不明である。象徴天皇制を考案した、とも言われる。

1968年12月8日、老衰のため死去。享年87歳[13]

義妹に国文学者であり、『狂言研究 考察と鑑賞』(桜楓社 1969)の著者である東京学芸大学教授である杉森美代子(1912-2016)がいるほか、孫には『文化現象の社会学』(杉森加重子発行 1984)等を著わした社会学者の杉森創吉(1939-1980)がいる。創吉は母のぶの死後、孝次郎・はな夫妻の養嗣子となった[14]

著書

編集

単著

編集

編集

編集

共著

編集

共編

編集

論文

編集
  • 「新自由主義の概念」『経済新誌』第3巻第10号、経済新誌社、1948年11月、3-10頁、NAID 40000885385 
  • 「世界連邦えの理念――歴史哲学的及び新宗教観的」『自由公論』第1巻第1号、自由公論社、1948年11月、2-8頁、NAID 40001723754 
  • 「内外時局の鍵と世界市民性の開拓」『政経時潮』第4巻第1号、政経時潮社、1949年1月、5-6頁、NAID 40002029081 
  • 「責任政治の確立――浅薄なる「反対党」公賛の蒙を啓く」『改造』第30巻第2号、10-15、1949年2月、改造社、NAID 40000380663 
  • 「倫理学と時局」『倫理』第547号、大日本出版、1949年2月、1-6頁、NAID 40003807474 
  • 「現実政治における至上道」『政経時潮』第4巻第3号、政経時潮社、1949年3月、13-15頁、NAID 40002029069 
  • 「共産主義及日本――世界共産党」『政経時潮』第4巻第8号、政経時潮社、1949年8月、9-10頁、NAID 40002029133 
  • 「時局と宗教家」『宗教公論』第20巻第1号、宗教問題研究所、1950年1月、2-5頁、NAID 40001723494 
  • 「日蓮と現代の宗教」『宗教公論』第20巻第6号、宗教問題研究所、1950年6月、2-8頁、NAID 40001723698 
  • 「日本文化新発足宣言――新求心主義を条件とする遠心主義」『宗教公論』第21巻第8号、宗教問題研究所、1951年8月、2-5頁、NAID 40001723576 
  • 「経済・政治・宗教(哲学としての)――トインビー氏等への寄語を含む」『経済新誌』第6巻第11号、経済新誌社、1951年8月、6-7頁、NAID 40000885269 
  • 「日本及世界の将来――イデオロギー問題の国内的及国際的解決の先務性」『日本及日本人』第2巻第11号、日本及日本人社、1951年11月、86-93頁、NAID 40002831900 
  • 「偉人と天才」『人生往来』第1巻第3号、綜合日本社、1951年12月、59-63頁、NAID 40005191443 
  • 「挙世界の徹底的廃軍備への政治意思開拓の必要」『日本及日本人』第4巻第1号、日本及日本人社、1953年1月、112-113頁、NAID 40002832200 
  • 「現代の最大急務――時局に対する世界史観的及び心理学的分析と建設的構想」『民主社会主義』第1巻第3号、社会思潮社、1953年5月、2-7頁、NAID 40003605221 

脚注

編集
  1. ^ 『「愉快な杉森イズム」『大学教授評判記』』河出書房、1935年、278,279頁。 
  2. ^ 飯田宏 (1965). “明治初期の静岡県の英学”. 日本英学史研究会研究報告 (日本英語史学会) 1965 (14): 1-9. 
  3. ^ 『早稲田大学百年史 第二巻』早稲田大学出版部、1981年、19、20頁。 
  4. ^ 『近代日本の社会科学と早稲田大学』早稲田大学社会科学研究所、1957年、391頁。 
  5. ^ 『早稲田大学百年史 第二巻』早稲田大学出版部、1981年、105頁。 
  6. ^ 『PRINCIPLES OF THE MORAL EMPIRE』Univ.of London、1917年。 
  7. ^ 『政治家中野正剛 上』新光閣書店、1971年。 
  8. ^ 菅野聡美『消費される恋愛論: 大正知識人と性』靑弓社、2001年。 
  9. ^ 紀旭峰『大正期台湾人の「日本留学」研究』龍溪書舎、2012年2月28日、5,170,184,193,195,319,330頁。 
  10. ^ “[archive.waseda.jp/archive/detail.html?arg={"subDB_id":"16","id":"723;2"}&lang=jp 早稲田人名データベース「杉森孝次郎」]”. 早稲田大学. 2024年8月30日閲覧。
  11. ^ 曾寶滿 (2018). “近代日本における反西洋的言説の研究——「アジア・モンロー主義」と「東亜協同体」論を中心に——”. 東京大学 博士(文学)甲第35517号. 
  12. ^ 『早稲田大学百年史 第四巻』早稲田大学出版部、1992年、14頁。 
  13. ^ 「杉森孝次郎氏」『朝日新聞』1968年12月9日、15面。
  14. ^ 原田鋼「創吉よ、なぜ逝った‼」杉森創吉追悼文集編集委員会(日本社会事業大学内;代表 中村優一)編集兼発行『微笑と情熱』1981、44-46頁。

外部リンク

編集