杉原 長氏(すぎはら ながうじ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将使番。祖父は杉原家利、父は杉原家次の弟である杉原源七郎通称は四郎兵衛。正次とも言う。

 
杉原 長氏
時代 安土桃山時代 - 江戸時代
生誕 永禄10年(1567年
死没 慶長6年(1601年
別名 正次[1]通称:四郎兵衛[1][2]、法名:空慶
主君 豊臣秀吉徳川家康
氏族 杉原氏
父母 父:杉原源七郎[注釈 1]
根村光次の娘
内膳[注釈 2]正永、女(高橋右衛門兵衛[注釈 3]室)
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略歴

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永禄10年(1567年)、杉原家次の弟・源七郎の子として生まれる。

慶長元年(1596年)より徳川家康に仕える[1]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いには使番の1人として従軍し、西軍敗走後の追撃で胸に矢を受けて重傷を負ったが、屈せずに首級を挙げた[1]本多正純よりこの話を聞いた家康から傷薬を下賜される。

翌慶長6年(1601年)に但馬国気多郡において1,000石の所領を賜ったが、同年に死去。享年35[1]

長氏の子孫については、嫡流は6代目の杉原正武が舟での納涼の際に悪酔いして川に落ちて死去し、明和2年(1765年)に断絶したが、傍流は明治維新まで存続した。

脚注

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注釈

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  1. ^ 杉原家利の次男で、源七郎、四郎左衛門正衛。は「義正」ともされる[1]
  2. ^ 父の先だって夭折した[1]
  3. ^ 松平忠直の家臣。

出典

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参考文献

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