木藤茂
木藤 茂(もくどう しげる[1][2][3][4]、1901年11月11日 - 1983年3月31日)は、日本の映画監督、脚本家、元俳優である[1][2][3][4][5][6][7]。本名松本 房雄(まつもと ふさお)[1][2][3]。溝口健二の現存する最古の映画『ふるさとの歌[8]』に主演した俳優であり[9]、溝口に師事して監督に転向した[1][3]。
もくどう しげる 木藤 茂 | |
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1923年の写真。 | |
本名 | 松本 房雄 (まつもと ふさお) |
別名義 |
木藤 繁 木藤 しげる |
生年月日 | 1901年11月11日 |
没年月日 | 1983年3月31日(81歳没) |
出生地 | 日本 東京府東京市本所区入江町(現在の東京都墨田区緑) |
死没地 | 日本 東京都小平市花小金井南町 |
職業 | 映画監督、脚本家、俳優 |
ジャンル | 新派、劇映画(現代劇・時代劇、サイレント映画・トーキー) |
活動期間 | 1914年 - 1941年 |
主な作品 | |
出演 『少女の決心』 『京屋襟店』 『愛に甦る日』 監督 『爆弾三勇士』 『佐賀怪猫伝』 『いろは仮名 四谷怪談』 |
人物・来歴
編集1901年(明治34年)11月11日、東京府東京市本所区入江町(現在の東京都墨田区緑)に生まれる[1][2][3]。『現代俳優名鑑』(揚幕社)には、2年早い生年月日が記されている[2]。
1913年(大正2年)3月、東京市二葉高等小学校(現在の墨田区立二葉小学校)を卒業し、満11歳のときに浅草区公園六区(現在の台東区浅草)にある映画館の看板描きに弟子入りする[1]。翌1914年(大正3年)には、新派の小柳龍の一座に女形として参加、満12歳で初舞台を踏み、東京近郊を巡業した[1]。『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)の田中純一郎の記述によれば、同年、小柳の一座は解散し、新派の正木秀夫(正木秀雄)の一座に参加して、地方を巡業したとあるが[1]、『現代俳優名鑑』によれば、正木秀雄に師事したのは1917年(大正6年)で、満16歳を迎える同年、長野県松本市で初舞台を踏むと記されている[2]。
次に日活向島撮影所で映画に出演する経緯であるが、『日本映画俳優全集・男優編』では、正木の紹介で1915年(大正4年)に同撮影所の女形・藤川三之助(本名 平田三弥、藤川三之祐とは別人[10])と出会い、同年2月に公開された『瀧の白糸』(監督細山喜代松)にエキストラとして出演して、映画界にデビューしたとしている[1]。『孝女白菊』(1916年)、『浮かれ胡弓』(1917年)等に出演するうちに、1919年(大正8年)4月21日に公開された『生さぬ仲 前篇』(監督小口忠)に出演したことを契機に、藤川の紹介で「子役・女形」として同撮影所に入社したとある[1]。『現代俳優名鑑』によれば、1918年(大正7年)に入社、とある[2]。
1922年(大正11年)12月30日に公開された田中栄三監督による大作『京屋襟店』、1923年(大正12年)2月4日に公開された溝口健二の第1回監督作品『愛に甦る日』に出演して、頭角を現した[1]。同年に発行された『現代俳優名鑑』では、本所区松坂町1丁目9番地(現在の墨田区両国)に住み、身長は5尺2寸(約157.6センチメートル)、体重12貫800匁(約48キログラム)、将来は山本嘉一、藤野秀夫の指導を得て活躍したい旨を語っている[2]。同年9月1日に起きた関東大震災で同撮影所は壊滅、全機能を日活京都撮影所(日活大将軍撮影所、現存せず)に移し、現代劇を製作する第二部を創設した際に、木藤も異動している[1][5][6][7]。1925年(大正14年)2月26日に公開された『貧者の勝利』(監督三枝源次郎)では、木藤の書いた脚本が採用されている[5][6][7]。
1927年(昭和2年)、演出部に転向、溝口健二、阿部豊に師事して演出助手(助監督)を務め、村田実の推薦で監督部に異動になり、同年4月17日に公開された『A38号室』を演出して、満25歳で映画監督としてデビューする[1][3][5]。1929年(昭和4年)には撮影所移転のため、日活太秦撮影所(のちの日活京都撮影所、および大映京都撮影所、現存せず)に異動する[5][6][7]。1933年(昭和8年)1月10日に公開された『恋すればこそ』は、本名の「松本 房雄」名義で監督したが[5][7]、同作を最後に日活を離れた[5][6][7]。
4年のブランクの後、新興キネマ京都撮影所(現在の東映京都撮影所)に入社、1937年(昭和12年)2月3日に公開されたトーキー『佐賀怪猫伝』を監督して復帰[5][6]、同作は大ヒットを記録した[11]。以降、時代劇に転向し、同年6月17日に公開された『いろは仮名 四谷怪談』は『四谷怪談』ものの初のトーキー作品となった[12]。鈴木澄子を主演に多くの映画を監督したが、 満40歳を目前にした1941年(昭和16年)9月28日に公開された『紅葉狩』を最後に、以降の監督および出演の記録は見当たらない[5][6]。第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)5月に、梅野井秀男一座・市川男女之助一座・新生劇の3派が合流して結成した「新興新派」の京都座での結成第1回公演において、堤千代の原作を川口松太郎が脚色した『小指』の演出を、木藤が行なった記録がある[13]。
晩年は、東京都小平市花小金井南町に居住し[1]、1983年(昭和58年)3月31日、老衰のため自宅で死去した[3][14]。満81歳没。
フィルモグラフィ
編集特筆以外のクレジットはすべて「出演」あるいは「監督」(1927年以降)である[5][6]。公開日の右側には役名[5][6]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[4][15]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。
日活向島撮影所
編集すべて製作は「日活向島撮影所」、配給は「日活」、すべてサイレント映画である[5][6][7]。
出演
- 『瀧の白糸』 : 監督細山喜代松、1915年2月製作・公開 - エキストラ出演[1]
- 『孝女白菊』 : 監督不明、1916年12月31日公開 - 役名不明[1]
- 『浮かれ胡弓』 : 監督不明、1917年8月1日公開 - 役名不明[1]
- 『雪枝夫人』 : 監督小口忠、1918年2月14日公開 - 「木藤繁」名義[5][16]
- 『生さぬ仲 前篇』 : 監督小口忠、1919年4月21日公開 - 役名不明[1]
- 『少女の決心』 : 監督不明、1922年2月19日公開 - 不良少年[2]
- 『浮草の恋』 : 監督鈴木謙作、1922年11月11日公開
- 『京屋襟店』 : 監督田中栄三、1922年12月30日公開 - 京屋の小僧浜吉・小料理店青柳の娘おてる・土工の六(三役)
- 『愛に甦る日』 : 監督溝口健二、1923年2月4日公開 - およし
- 『若草の歌』 : 監督若山治、1923年2月15日公開 - 令息・重定
- 『孝女しづえ』 : 監督若山治、1923年3月25日公開 - その倅・甚吉
- 『夜明け前』 : 監督大洞元吾、1923年5月10日公開
- 『人間苦』 : 監督鈴木謙作、1923年5月31日公開
- 『受難者の群』 : 監督細山喜代松、1923年6月14日公開 - 嘘を吐く男
- 『嵐する前』 : 監督細山喜代松、1923年11月23日公開 - 画家・大月晃
日活京都撮影所第二部
編集特筆以外すべて製作は「日活京都撮影所第二部」(現代劇部)、配給は「日活」、すべてサイレント映画である[5][6][7]。
出演
- 『街の物語』 : 監督細山喜代松、製作日活京都撮影所、1924年2月15日公開 - 青年
- 『暁の死』 : 監督溝口健二、1924年2月29日公開 - 橋本清
- 『坩堝は沸る』 : 監督鈴木謙作、1924年3月21日公開 - 幸児の甥龍也
- 『現代の女王』 : 監督溝口健二、1924年3月28日公開 - 音楽家、音楽家
- 『女性は強し』 : 監督溝口健二、1924年4月11日公開 - 幸一
- 『冷火』 : 監督細山喜代松、1924年5月30日公開 - 山野(不良少年)
- 『民族の黎明』 : 監督三枝源次郎、1924年7月4日公開 - 弟鹿文
- 『永遠の悲哀』 : 監督三枝源次郎、1924年製作・公開 - 若き下僕
- 『たけくらべ』 : 監督三枝源次郎、1924年8月1日公開 - 三五郎
- 『島の哀れ』 : 監督細山喜代松、1924年8月15日公開 - 権六
- 『青春を賭して』 : 監督大洞元吾、1924年10月17日公開 - 仲小路良磨
- 『白鸚鵡夫人』 : 監督三枝源次郎、1925年1月5日公開 - 北堀川篤麿
- 『君国の為に』(『君国の為めに』[7]) : 監督若山治、1925年1月14日公開 - 伜種一(歩兵上等兵・中澤種一[7]・主演)
- 『貧者の勝利』[5][7](『勇者の勝利』[6]) : 監督三枝源次郎、原作宮島保、1925年2月26日公開 - 脚本のみ
- 『法を慕ふ女』 : 監督村田実・三枝源次郎、1925年3月20日公開 - 多感な若き商人 田村芳雄
- 『心配御無用』 : 監督鈴木謙作、1925年6月28日公開 - その甥
- 『ふるさとの歌』 : 監督溝口健二、製作日活関西撮影所教育部、1925年9月17日公開(1926年12月3日公開[7]) - 青年馭者・竹田直太郎(主演)、50分尺で現存(NFC所蔵[4])
日活大将軍撮影所
編集すべて製作は「日活大将軍撮影所」(現代劇)、配給は「日活」、すべてサイレント映画である[5][6][7]。
出演
- 『娘の行商』 : 監督楠山律、1925年9月25日公開 - 虎吉
- 『愛に輝く女性』 : 監督徳永フランク、1925年10月1日公開 - 兄啓作
- 『美人征服』 : 監督三枝源次郎、1925年10月15日公開 - 不良青年 小西明
- 『小品映画集 サンドイチマン』(『サンドウヰッチマン』[6]、『小品映画集 サンドウヰツチマン』[7]) : 監督鈴木謙作、1925年11月21日公開
- 『夫婦なればこそ』 : 監督楠山律、1925年製作・公開 - 主演
- 『復讐の為に』[5][6](『復讐の為めに』[5][6]) : 監督三枝源次郎、1925年製作・1926年2月7日公開 - 主演
- 『娘の危険時代』 : 監督伊奈精一、1926年4月10日公開 - 主演
- 『母を尋ねて三百里』 : 監督田坂具隆、1926年5月7日公開 - 曲馬団の男
- 『乱れ行く星』 : 監督楠山律、1926年7月1日公開 - 洋画家・久野啓吉(主演)
- 『恋の渦巻』 : 監督楠山律、1926年8月31日公開 - 二川欽之助(主演)
- 『恋は悲し』 : 監督若山治、1926年9月26日公開 - 柴健作
- 『大陸の彼方』[5](『大陸の彼方へ』[7]) : 監督若山治、1926年12月10日公開 - 横田新吉
監督
- 『A38号室』 : 1927年4月17日公開 - 監督デビュー作
- 『女は真平』(『女は真つ平』[7]) : 1927年6月24日公開
- 『稲妻』 : 1927年7月22日公開
- 『突貫恋の初陣』 : 1927年8月12日公開
- 『生還』 : 1927年8月24日公開 - 原作・脚本・監督
- 『魔の沼』 : 1927年11月18日公開
- 『老校長』 : 1927年12月1日公開
- 『粋な叔父さん』 : 1928年1月7日公開
- 『幸運』 : 1928年2月23日公開
- 『弱虫療法』 : 1928年4月29日公開
- 『サラリーマン』 : 1928年6月15日公開 - 原作・監督
- 『頼まれた花婿』 : 1928年8月17日公開
- 『砂漠に陽が落ちて』 : 1928年11月16日公開
- 『名のらぬの父』(『なのらぬ父』[6][7]) : 1928年11月25日公開 - 原作・監督
日活太秦撮影所
編集すべて製作は「日活太秦撮影所」(現代劇)、配給は「日活」、特筆以外すべてサイレント映画である[5][6][7]。
監督
- 『スキー猛進』 : 1929年2月8日公開
- 『波浮の港』 : 1929年2月15日公開
- 『桃咲く村』[6][7](『桃咲く花』[5]) : 1929年5月10日公開
- 『風船玉』 : 1929年7月26日公開 - 原作・監督
- 『地上の恋』 : 1929年11月23日公開
- 『木馬の悲劇』 : 1930年1月7日公開
- 『雪の救援列車』 : 1930年3月21日公開
- 『佐渡おけさ』 : 1930年5月1日公開
- 『初恋日記』 : 1930年7月18日公開
- 『女給』 : 1930年10月17日公開
- 『山に鳴る男』 : 1931年2月20日公開
- 『レヴューの踊子』 : 1931年6月5日公開
- 『都会の子たち』 : 1932年1月29日公開
- 『海の横顔』[6][7](『海の横綱』[5]) : 1932年2月5日公開
- 『彼女への飛来』[5][6](タックル、『彼女へ飛来』[7]) : 1932年3月10日公開
- 『爆弾三勇士』 : 1932年3月10日公開 - 『誉はたかし 爆彈三勇士』の題で1分尺の断片が現存(NFC所蔵[4]) / 玩具フィルムによる断片が現存(大阪芸術大学所蔵[17])
- 『腕を組んで』 : 1932年7月8日公開
- 『勝つて帰れよ』 : サウンド版、1932年8月11日公開
- 『天晴れ三段跳』[5][7](『天晴三段跳』[6]) : 1932年製作・公開 - 玩具フィルムによる断片が現存(大阪芸術大学所蔵[17])
- 『恋すればこそ』[5][7](『祇園情話 恋すればこそ』[6]) : 1933年1月10日公開 - 「松本房雄」名義[7]
新興キネマ京都撮影所
編集特筆以外すべて製作は「新興キネマ京都撮影所」、配給は「新興キネマ」、すべてトーキーである[5][6]。
監督
- 『佐賀怪猫伝』 : 1937年2月3日公開
- 『寺小屋』 : 1937年5月5日公開
- 『いろは仮名 四谷怪談』 : 1937年6月17日公開
- 『鬼傑白頭巾』 : 1937年8月5日公開
- 『七度び狐』 : 1937年9月23日公開
- 『奴の小万』 : 1937年10月14日公開
- 『有馬猫』(再公開短縮改題『怪談有馬騒動』) : 1937年10月30日公開 - 48分尺で現存(マツダ映画社所蔵[15]) / 短縮版51分尺の『怪談有馬騒動』が現存[18]
- 『女郎蜘蛛』 : 1938年2月3日公開
- 『怪談鴛鴦帳』 : 1938年3月30日公開 - 78分尺で現存(NFC所蔵[4])
- 『疾風白頭巾』 : 1938年7月7日公開
- 『振袖若衆』 : 1938年9月8日公開 - 8分尺の断片が現存(NFC所蔵[4])
- 『御存じ紫頭巾』 : 1938年10月27日公開 - 67分尺で現存(NFC所蔵[4])
- 『五郎正宗』 : 1938年12月15日公開
- 『女自来也』 : 1939年3月8日公開
- 『お江戸奴侍』 : 1939年6月15日公開
- 『怪談狂恋女師匠』 : 1939年8月1日公開 - 6分尺の断片が現存(NFC所蔵[4]) / 尺数不明で現存(マツダ映画社所蔵[15])
- 『文福茶釜』 : 1939年9月24日公開
- 『隠密姫』 : 1939年12月7日公開
- 『安来節お秀』 : 1940年5月23日公開
- 『陽気な幽霊』 : 1940年7月14日公開
- 『三味線娘』 : 製作新興キネマ東京撮影所、1940年10月5日公開
- 『神崎東下り』 : 1941年1月23日公開
- 『娘旅芸人』 : 1941年6月5日公開
- 『紅葉狩』 : 1941年9月28日公開
脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r キネマ旬報社[1979], p.584.
- ^ a b c d e f g h i 揚幕社[1923], p.36-37.
- ^ a b c d e f g 木藤茂、jlogos.com, エア、2013年3月5日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 木藤茂、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年2月27日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 木藤茂、日本映画データベース、2013年3月5日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 木藤茂、日本映画情報システム、文化庁、2013年3月5日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 木藤茂、日活データベース、2013年2月27日閲覧。
- ^ 『ふるさとの歌』 - コトバンク
- ^ ふるさとの歌、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年2月27日閲覧。
- ^ キネマ旬報社[1979], p.502-503.
- ^ 東映京都撮影所、立命館大学、2013年3月5日閲覧。
- ^ 世界大百科事典『鈴木澄子』 - コトバンク、2013年3月5日閲覧。
- ^ 国立劇場[2005], p.143.
- ^ 川部[1983], p.124.
- ^ a b c 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇、マツダ映画社、2013年3月5日閲覧。
- ^ 雪枝夫人、日活データベース、2013年2月27日閲覧。
- ^ a b 玩具映画プロジェクト報告、太田米男、大阪芸術大学、2013年3月5日閲覧。
- ^ 大人になってもやっぱり怖い「化け猫」たちの夜、神保町シアター、2013年3月5日閲覧。
参考文献
編集- 『現代俳優名鑑』、揚幕社、1923年
- 『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年10月23日
- 『B級巨匠論 - 中川信夫研究』、川部修詩、静雅堂、1983年1月 ISBN 4915366014
- 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年11月 ISBN 4816915133
- 『近代歌舞伎年表 京都篇 別巻 昭和十八年-昭和二十二年補遺・索引』、国立劇場近代歌舞伎年表編纂室、八木書店、2005年4月 ISBN 4840692335
関連項目
編集外部リンク
編集- Shigeru Mokudo - IMDb
- Shigeru Kifuji - IMDb (表記誤記)
- Shigeru Kito - IMDb (表記誤記)
- Shigeru Kido - IMDb (表記誤記)
- 木藤茂 出演者、木藤茂 スタッフ - 日本映画情報システム (文化庁)
- 木藤茂 - 東京国立近代美術館フィルムセンター
- 木藤茂 - 日本映画データベース
- 松本房雄 - 日本映画データベース
- 木藤茂 - allcinema
- 木藤茂 - jlogos.com (エア)
- 木藤茂 - 日活データベース (日活)