有馬豊長
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長6年(1601年) |
死没 | 延宝3年4月15日(1675年5月9日) |
別名 | 大学 |
戒名 | 了性 |
墓所 | 曹渓寺 |
官位 | 従五位下・出雲守 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川秀忠→家光→家綱 |
氏族 | 摂津有馬氏 |
父母 | 父:有馬則頼、母:某氏[1] |
兄弟 |
則氏、豊氏、則次、豊長、有馬重頼室、 渡瀬繁詮正室、石野氏満正室、中山慶親室 |
妻 |
正室:水野忠元娘 継室:水野重央娘 |
子 | 女子2人、則故、水野重治[注釈 1]、佐用豊房[注釈 2]、水野勝政[注釈 3]、娘 |
生涯
編集慶長6年(1601年)、摂津国三田藩主・有馬則頼の四男[1]として誕生した。慶長11年(1606年)、6歳の時に人質として江戸に上り、徳川家康・秀忠に拝謁する。慶長18年(1613年)、兄・豊氏の所領である福知山に戻っている。大坂冬の陣・大坂夏の陣に際しては、豊氏に従っている。
元和2年(1616年)より徳川秀忠に出仕し、のちに御小姓役を務める。元和6年(1620年)、近江国蒲生郡内および武蔵国比企郡内に3000石を賜る。元和7年(1621年)、従五位下・出雲守に叙任。 3代将軍・徳川家光の日光参詣や上洛に供奉した。慶安4年(1651年)に家光が没すると、霊柩と共に日光に赴いている。
その後勤めを辞し、寄合に列した。延宝3年(1675年)4月15日、死去。享年75。麻布の曹渓寺に葬られ、以後代々の菩提寺となった。『寛政重修諸家譜』には4男3女が記載されている。跡は長男の則故が継いだ。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 『寛政重修諸家譜』巻第四百七十