衆生
この項目は著作権侵害が指摘され、現在審議中です。 審議の結果、該当する投稿以降の全ての版またはこのページ全体(すべての版)が削除される可能性があります。問題箇所の適切な差し戻しが行われていれば、削除の範囲は問題版から差し戻し直前の版までとなる可能性もあります。適切な差し戻しが行われていないと考えられる場合は、この版の編集や引用はしないで下さい。著作権上問題のない自分の投稿内容が削除される可能性のある方は、早めに控えを取っておいて下さい(詳しくはこちらの解説をお読み下さい)。 該当する投稿をされた方へ: ウィキペディアでは、著作権上問題のない投稿のみを受け付けることになっています。他人の著作物を使うときをお読み頂いた上で、審議にご協力をお願いします。自分の著作物を投稿されていた場合は削除依頼を出されたらをご覧下さい。 審議が終わるまで、このお知らせを除去しないでください。 (以下、著作権侵害の可能性がある箇所を取り除いた内容を暫定的に表示します。) |
衆生(しゅじょう、梵: sattva सत्त्व、巴: satta[1])は、一切の生きとし生けるもの(生類)のこと[2]。基本的には迷いの世界にある生類を指すが、広義には仏・菩薩をも含めることがある[2]。
仏教用語 衆生 | |
---|---|
パーリ語 | satta |
サンスクリット語 | sattva |
中国語 | 有情 |
日本語 |
衆生 (ローマ字: しゅじょう) |
英語 | Sattva |
訳語
編集玄奘訳では有情(うじょう、梵: sattva[3])と表記する。「梵に薩埵(さった)という。ここに有情という。情識あがゆえに」(唯識述記)といわれ、情(心の働き)を持つもの、という意味[3]で、非精神的存在である非情(ひじょう)[4](無情(むじょう)ともいう[4])に対して、一切の生きとし生けるものを含む。多くのものが共に生存しているという意味でバフジャナ(梵: bahujana)ともいわれ、これは衆人とも訳される。
意味
編集衆生の中には、人間だけでなく動物など他の生命も含まれている。したがって、衆生や有情という言葉は広い意味に用いられる。十界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏)の中でも前半の六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)ないしは五趣(地獄、餓鬼、畜生、人間、天上)のいずれかに属して生きている[5]。衆生が死ねば、また六道ないしは五趣のいずれかの中に生まれる(天人とても寿命は永遠ではなく、輪廻を離れてはいない)[5]。仏教、少なくとも阿毘達磨倶舎論においては、植物までを含まないが、ジャイナ教では植物を含む[5]。人間は、サンスクリット語でマヌシャ(manuṣya मनुष)といわれ、ヨーロッパでのマン(英: man)やメンシュ(独: Mensch)と同じく「考えるもの」という意味である。サンスクリット語のサットヴァ (sattva)、パーリ語のサッタ (satta) は、「生きているもの、存在するもの」という意味である。なお、涅槃経獅子吼菩薩品には「一切の衆生は悉く仏性を有す」とあるが、この言葉は、仏になれるのは衆生(有情)のみで、非情の存在は除外されるという意味を含む[4]。
漢語を元にした解釈
編集原義については、衆多の法が仮に和合して生ずるので衆生と名づける(大法鼓経)とする説や、衆多の生死を経るので衆生と名づける(大乗義章)などの説がある[4]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 中村元他『岩波仏教辞典』岩波書店、1989年。ISBN 4-00-080072-8。
- 櫻部建、上山春平『存在の分析<アビダルマ>―仏教の思想〈2〉』角川書店〈角川ソフィア文庫〉、2006年。ISBN 4-04-198502-1。(初出:『仏教の思想』第2巻 角川書店、1969年)