星溪園(せいけいえん)は、埼玉県熊谷市にある回遊式庭園江戸時代末期から明治時代にかけて整備され、昭和29年(1954年)に熊谷市の名勝に指定された[2]

星溪園
入口
分類 回遊式庭園
所在地
埼玉県熊谷市鎌倉町32番地
座標 北緯36度08分39.1秒 東経139度22分52.7秒 / 北緯36.144194度 東経139.381306度 / 36.144194; 139.381306座標: 北緯36度08分39.1秒 東経139度22分52.7秒 / 北緯36.144194度 東経139.381306度 / 36.144194; 139.381306
面積 3,847m2[1]
運営者 熊谷市
設備・遊具 星溪寮、松風庵、積翠閣
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概要

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市内を流れる星川の水源「玉の池」を中心にした回遊式庭園[3]慶応年間(1865年から1868年)から明治元年(1868年)にかけて、熊谷宿の本陣を代々務めていた竹井家当主・竹井澹如が池の周囲に別邸を設けることになり、庭園として整備を進めた[3]

元々は「池ノ亭」と呼ばれていたが、昭和初期に当地を訪れた京都大徳寺の牧宗禅師が「星溪」と名付け[2]、同25年(1950年)に熊谷市へ譲渡された際に「星溪園」と命名された[1]。庭園内には数寄屋造りを取り入れた星溪寮、松風庵、積翠閣という3つの建物、木竹や名石や古塔が配されている[1]

竹井は中央政界と親交があり[4]、戦前には昭憲皇太后秩父宮雍仁親王大隈重信徳富蘇峰をはじめ多くの著名人が来遊した[3][5]

昭和20年(1945年)8月15日の熊谷空襲により、庭園内の此君亭と茶屋が焼失する被害を受けたが、星溪寮、松風庵、積翠閣は焼失を免れた[3]。その後、建物の老朽化が進んでいたが平成2年から同4年(1990年から1992年)にかけて建物の修復や園内の整備が行われた[2]

玉の池

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元和9年(1623年)9月、荒川の洪水により堤(北条堤)が決壊し、決壊場所から湧き水が生じるようになり「玉の池」と呼ばれた[3]。江戸後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』には次のように記されており、「石上寺境内の池」が「玉の池」にあたる[3]

星川
水源二派あり、一は宿の南裏なる石上寺境内の池より流れ出、一は成田用水の下流来て一條の川となれり、また久山寺境内より湧き出る水も此川に注ぐという[6][7]

なお、湧き水は荒川河川敷にある砂利の乱掘、周辺地域の都市化などの影響により[3]、昭和30年代に枯渇したが、六堰頭首工から取水した荒川の水を引き入れることで水位を保っている[3][5]

データ

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  • 開館時間 - 9時から17時(11月1日から2月末日までは、9時から16時)
  • 休館日 - 月曜日と12月27日から1月4日までの年末年始(ただし月曜日が休日の場合は翌日が休館)

脚注

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  1. ^ a b c 名勝 星溪園” (PDF). 熊谷デジタルミュージアム. 2016年12月30日閲覧。
  2. ^ a b c 星溪園”. 熊谷市. 2016年12月30日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h 平凡社地方資料センター 編『日本歴史地名大系 11 埼玉県の地名』平凡社、1993年、844頁。ISBN 978-4582490114 
  4. ^ 熊谷の偉人の部屋 竹井澹如”. 熊谷市デジタルミュージアム. 2016年12月30日閲覧。
  5. ^ a b 市指定文化財名勝「星溪園」について教えてください”. 熊谷市デジタルミュージアム. 2016年12月30日閲覧。
  6. ^ 蘆田伊人 編・校訂『新編武蔵風土記稿』 第11巻、雄山閣出版、1981年、85頁。ISBN 978-4639000280 
  7. ^ 蘆田伊人 編「新編武蔵風土記稿 巻ノ220大里郡ノ2 熊谷町」『大日本地誌大系』 第15巻風土記稿11、雄山閣、1929年8月。NDLJP:1214927/49 

関連項目

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外部リンク

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