明王太郎
明王太郎(みょうおうたろう、異字体:明王太良)は、相模国大山の堂宮大工が代々襲名した名跡。伝承では約1300年、記録に残る限りでは500年以上にわたって明王太郎の名と大工技術を継承し、相模国を中心に武蔵国・甲斐国・駿河国で神社仏閣や城郭の建築に携わった。近世以降は神輿の製作も多く手がけ、「大山流」と称される相州神輿の一つの型を成した[1]。江戸後期には白川伯王家の裁許を得た神職として建築に関わる諸祭儀を執り行っていた。
江戸時代初期から120年以上「田中明王太郎」を名乗ったが[2]、江戸時代中頃の明王太郎景直の代から手中姓を名乗り、以後は手中明王太郎の名を世襲した。明王太郎の残した文書は子孫の手中家当主によって神奈川県に寄託され「手中家文書[注釈 1]」として神奈川県立公文書館に保管されている。
解説
編集家祖の伝説
編集『新編相模国風土記稿』によれば、明王太郎の家系は奈良時代まで遡る。家祖は名を金丸太郎文観といい美濃国岐阜に住んでいた。文観は十六歳のとき聖武天皇の勅により東大寺造立の棟梁を務め、後に東大寺初代別当良弁僧正に従って相模国に下り、勅願によって開かれた大山寺の造営でも棟梁を務めた。そのとき大山寺本尊 不動明王のお告げがあり、以降は「明王太郎」と称して代々の名跡とし、大山寺・大山阿夫利神社の修造には必ずその子孫が棟梁を務めるようになったとされる[3]。
記録上の初見
編集「明王太郎」の最も古い記録は、平塚市南金目にある光明寺(金目観音)の明応2年(1493年)の墨書である。境内入り口の仁王門に立つ吽形の金剛力士像躰内に仏師「下野法眼弘円」の名とともに「大工明王太郎末孫吉宗[注釈 2]」の銘があり、明王太郎が仁王門造立に携わっていたことが確認される[3][4]。
明王太郎の名が次に現れるのは平塚市岡崎に鎮座する駒形神社の棟札で、天文16年(1547年)のものに「大工秋山郷明王太郎」とある[注釈 3]ほか、永禄11年(1568年)の同神社棟札[注釈 4]にも「大工秋山郷明王太郎」の名がある。また天文20年(1551年)に行われた高部屋神社の社殿再興で大工を務めた記録もあり、少なくとも室町時代までには宮大工として広く活動を行っていた。
江戸時代からの活動
編集近世以降の明王太郎のあゆみは棟札や文書に多く残されている。関係の深い大山寺を中心に相州の寺社造営を広く手がけ、相模国の延喜式内社13社のうち半数の造営に携わるなど、格式ある神社からも信頼を寄せられていた。また相州以外にも活動範囲を広げ、幕府の事業である日光東照宮修復、江戸城西の丸普請、京都御所清涼殿普請、江戸城本丸造営にも参加している。
安永2年(1773年)、工匠明王太郎一門の祖神を意味する「明王工門霊神(みょうおうぐとのれいじん)」の神号を白川伯王家より授かり、以降は祖神として明王太郎文観を祀った[3]。
江戸時代中期以降の明王太郎は神輿の造営も手がけている。相州二宮の梅宮流に対して「大山流」と呼ばれ、相州神輿の双璧を成した。
昭和26年(1951年)に手中明王太郎景堯が亡くなり跡を継ぐ者がいなくなったことで、宮大工棟梁としての明王太郎はその歴史に幕を下ろした。
明王太郎代々
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 「手中明王太郎家文書」とされる場合もある。
- ^ 手中正はこの「末孫」の表記を、少なくとも「吉宗」の数代前から先祖の明王太郎が活躍していた証拠としている。
- ^ 実物は現存しないが、幕末の地誌『新編相模国風土記稿』に棟札の全文が記録されている。
- ^ 他10枚の棟札とともに「駒形神社棟札・勧化札」として平塚市の文化財に指定されている。
- ^ 文久元年(1861年)、神輿新造のために秦野市曽屋神社へ金六十五両で売却された。
- ^ コレラの蔓延、黒船来航、生麦事件など、幕末の江戸に於ける重大事件の情報をいち早く手に入れ、日記に記録している
- ^ 手中家は2018年現在も存続。明王太郎研究の第一人者である手中正氏はこの末裔。