拓跋什翼犍の子の拓跋力真の子として生まれた。はじめ慕容垂に敗れて従った。のちに道武帝が後燕を討つと、拓跋意烈は妻子を捨てて井陘で道武帝を迎えた。道武帝が後燕を平定すると、拓跋意烈は戦功により遼西公の爵位を受け、広平郡太守に任じられた。398年(天興元年)、和跋が鄴の行台となったが、拓跋意烈は和跋の下につくことを恥じ、徒党を結んで鄴を襲撃する計画を立てた。計画が発覚して処刑された。
子に拓跋抜干があり、明元帝のときに渤海郡太守に任じられ、武遂県子の爵位を受けた。
- 『魏書』巻15 列伝第3
- 『北史』巻15 列伝第3