戸田与三郎
戸田 与三郎(とだ よさぶろう、1920年2月20日 - 1986年)は、奈良県出身のプロ野球選手(三塁手)、高校野球監督。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 奈良県 |
生年月日 | 1920年2月20日 |
没年月日 | 1986年[1] |
身長 体重 |
169 cm 68 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 三塁手 |
プロ入り | 1939年 |
初出場 | 1940年3月18日[2] |
最終出場 | 1940年4月20日[3] |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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来歴・人物
編集畝傍中学(現・奈良県立畝傍高等学校)卒業後、1939年3月10日に南海軍に入団[4]。翌1940年に一軍出場を果たし、3月18日の巨人戦(西宮球場。トリプルヘッダーの3試合目だった)[2][3]で初出場。しかし、自身の成績不振と戦局の悪化に伴い、一軍出場の期間は約1ヶ月と短く、4月20日の名古屋軍(鳴海球場)が最終出場となった[3]。1940年シーズン終了後、軍に入営し[5]、そのまま現役引退した。
戦後は、奈良県立高田高等学校の監督に就任。高田高校を1955年春の甲子園に導き、ベスト4に入る健闘をみせた(準決勝で稲川東一郎率いる桐生高〈この大会準優勝〉に3-6で惜敗)。1976年に息子の戸田哲嗣に監督の座を譲って、勇退した[6]。1986年[1]に死去。享年65~66。
僅か16試合、11失策に30打数1安打(打率.033)と全く見るべきではない成績のように思えるが、四球を13個も選んでおり、極めて選球眼に優れていた(ちなみに三振は10個であり、四球より少ない)。1940年3月24日のイーグルス戦(後楽園球場)では3打席連続で四球を選び、南海の勝利に貢献した[7]。出塁率は.326にもなり、IsoD(出塁率-打率)が.293と驚異的な成績を残している[8]。
詳細情報
編集年度別打撃成績
編集年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1940 | 南海 | 16 | 44 | 30 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | -- | 1 | 0 | 13 | -- | 0 | 10 | -- | .033 | .326 | .033 | .359 |
通算:1年 | 16 | 44 | 30 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | -- | 1 | 0 | 13 | -- | 0 | 10 | -- | .033 | .326 | .033 | .359 |
背番号
編集- 10 (1939年 - 1940年)
脚注
編集- ^ a b 高田高校野球部OB会総会(たかはしけいいちブログ・2013年6月10日)※文中で昨年27回忌を終えられたとの記述があり、計算すると2012-27+1=1986年に没したことになる。
- ^ a b 職業野球!実況中継(15年 南海vsジャイアンツ 1回戦)
- ^ a b c 1940年南海・スタメンアーカイブ
- ^ 南海軍登録選手(1939年・野球回廊のHP)※投手登録となっているが、後に三塁手登録となっている。
- ^ 職業野球!実況中継(15年 黒鷲vs南海 13回戦)
- ^ 育成功労賞に戸田哲嗣さん・奈良朝日新聞デジタル、2010年6月19日記事
- ^ 職業野球!実況中継(15年 南海vsイーグルス 2回戦)
- ^ 参考までに、NPBのIsoD歴代1位(4000打数以上の打者限定)は王貞治(元巨人)だが、.145である(ちょっとマニアックですが、IsoDベスト、ワースト40|野球史)。ちなみに王のシーズン最高は1974年の.199である(王 貞治|クラシックSTATS鑑賞 巨人042)。MLBではバリー・ボンズ(元サンフランシスコ・ジャイアンツ)が2004年シーズンに.247(打率.362,出塁率.609〈MLB記録〉)の記録を残している。