戸倉勝城
戸倉 勝城(とくら かつき、1914年11月3日 - 1997年6月6日)は、山口県出身のプロ野球選手(外野手)・監督。
1956年頃撮影 | |
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 山口県下関市 |
生年月日 | 1914年11月3日 |
没年月日 | 1997年6月6日(82歳没) |
身長 体重 |
170 cm 69 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1950年 |
初出場 | 1950年3月11日 |
最終出場 | 1957年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督・コーチ歴 | |
| |
この表について
|
経歴
編集豊浦中学を経て、法政大学を卒業。卒業後は、大連満倶・林兼商店でプレーイングマネージャーを務めた[1]。1950年に社会人野球大洋漁業から河内卓司らと引き抜かれ、この年創立された毎日に入団。
35歳という高齢でのプロ入りながら、同年3月11日のパ・リーグ開幕戦(西鉄戦)で4番を打ち、初打席で木下勇から本塁打を放って初打席初本塁打とパ・リーグ第1号本塁打を記録した[2]。この年の7月5日の大映戦(後楽園球場)では、ナイターでの第1号本塁打を記録する[1]。最終的には21本塁打、96打点でチームの初優勝に貢献した[1]。
翌年4月には阪急に移籍[1]。毎日監督の湯浅禎夫による、戸倉の将来のために若いチームで指導者的な立場を兼ねさせようとの意向[3]、加えてパ・リーグを主導する毎日ならではのリーグの戦力均衡の観点からの譲渡だった[2]。以後、4番打者として活躍し[1]、1952年(.301)、1954年(.300)、1955年(.321)と3度の3割以上[1]、特に1955年には40歳にして自己ベストの打率.321(リーグ3位)を残し[1]、1955年と1956年に2年連続でベストナインを受賞する。1958年限りで引退[1]。なお、40代での規定打席到達による打率3割達成は史上初である。
翌1959年に阪急の打撃コーチに就任。同年途中から、藤本定義に代わって監督に就任する。しかし、貧打のためリーグ優勝はすることができず1962年に退団。
1967年には東京の監督に就任するが、またしても貧打に泣く一方で、あまりバントを試みない強気一辺倒の作戦が永田雅一オーナーの不評を買い、6月にいったん休養し、8月に復帰したがわずか2週間で解任された(後任は濃人渉)。
詳細情報
編集年度別打撃成績
編集年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1950 | 毎日 | 110 | 447 | 414 | 90 | 109 | 18 | 9 | 21 | 208 | 96 | 22 | 12 | 1 | -- | 29 | -- | 0 | 39 | 3 | .263 | .312 | .502 | .814 |
1951 | 阪急 | 91 | 340 | 311 | 37 | 68 | 13 | 4 | 10 | 119 | 55 | 8 | 5 | 0 | -- | 29 | -- | 0 | 24 | 1 | .219 | .285 | .383 | .668 |
1952 | 106 | 399 | 369 | 51 | 111 | 17 | 7 | 7 | 163 | 53 | 25 | 5 | 3 | -- | 26 | -- | 1 | 22 | 4 | .301 | .348 | .442 | .790 | |
1953 | 113 | 438 | 409 | 52 | 110 | 21 | 7 | 8 | 169 | 54 | 13 | 1 | 3 | -- | 21 | -- | 4 | 38 | 13 | .269 | .311 | .413 | .724 | |
1954 | 127 | 485 | 443 | 43 | 133 | 27 | 5 | 10 | 200 | 79 | 13 | 7 | 2 | 5 | 33 | -- | 2 | 51 | 3 | .300 | .351 | .451 | .803 | |
1955 | 139 | 532 | 480 | 62 | 154 | 27 | 9 | 6 | 217 | 64 | 21 | 8 | 6 | 8 | 37 | 6 | 0 | 51 | 6 | .321 | .369 | .452 | .822 | |
1956 | 143 | 552 | 499 | 69 | 146 | 22 | 8 | 8 | 208 | 72 | 11 | 7 | 6 | 9 | 34 | 5 | 4 | 56 | 5 | .293 | .343 | .417 | .759 | |
1957 | 78 | 266 | 241 | 29 | 64 | 9 | 2 | 5 | 92 | 34 | 2 | 0 | 0 | 2 | 21 | 3 | 2 | 31 | 3 | .266 | .330 | .382 | .711 | |
通算:8年 | 907 | 3459 | 3166 | 433 | 895 | 154 | 51 | 75 | 1376 | 507 | 115 | 45 | 21 | 24 | 230 | 14 | 13 | 312 | 38 | .283 | .334 | .435 | .768 |
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
編集- ベストナイン:2回 (外野手部門:1955年、1956年)
記録
編集- 初記録
- その他の記録
背番号
編集- 8 (1950年)
- 27 (1951年 - 1961年)
- 30 (1962年)[5]
- 50 (1967年)
脚注
編集- ^ a b c d e f g h i 阪急ブレーブス黄金の歴史 [永久保存版] よみがえる勇者の記憶 1936-1988、ベースボール・マガジン社、2011年、P41
- ^ a b “【3月11日】1950年(昭25) 神主打法30分及ばず オールドルーキー2リーグ分裂1号本塁打”. SPORTS NIPPON NEWSPAPERS. 2011年10月28日閲覧。
- ^ 『日本プロ野球トレード大鑑』78頁
- ^ 千葉功「中村晃、銀次らの「デビュー戦」を振り返る」『週刊ベースボールONLINE』2015年4月5日。2024年3月30日閲覧。
- ^ 西鉄ライオンズから加入した関口清治外野手が、移籍前からの27番を着用するために変更。
参考文献
編集- 『日本プロ野球トレード大鑑』ベースボールマガジン社、2001年