愛知機械工業
愛知機械工業株式会社(あいちきかいこうぎょう)は、愛知県名古屋市熱田区川並町に本社を置くエンジン・マニュアルトランスミッションなど自動車部品・産業用部品を中心としたメーカー。日産自動車の機能子会社。プラントコードは「4」。
本社(2014年5月) | |
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | |
本社所在地 |
日本 〒456-8601 愛知県名古屋市熱田区川並町2番12号 北緯35度8分0.4秒 東経136度53分44.9秒 / 北緯35.133444度 東経136.895806度座標: 北緯35度8分0.4秒 東経136度53分44.9秒 / 北緯35.133444度 東経136.895806度 |
設立 |
1949年5月23日 (新愛知起業株式会社) |
業種 | 輸送用機器 |
法人番号 | 9180001021390 |
事業内容 | 1.自動車、各種発動機及び変速機並びに関連資材の開発、製造、販売、修理 |
代表者 | 代表取締役社長 和田 民世 |
資本金 | 85億1800万円 |
売上高 |
763億3,000万円 (2024年3月期)[1] |
営業利益 |
28億3,400万円 (2024年3月期)[1] |
経常利益 |
31億6,000万円 (2024年3月期)[1] |
純利益 |
14億7,800万円 (2024年3月期)[1] |
純資産 |
500億6,500万円 (2024年3月期)[1] |
総資産 |
833億3,800万円 (2024年3月期)[1] |
決算期 | 3月31日 |
主要株主 | 日産自動車 100% |
関係する人物 | 坂本秀行(会長) |
外部リンク | 公式ウェブサイト |
終戦直後から1960年代まではオート三輪「ヂャイアント」を、1960年代には「コニー」(#過去の生産車種を参照)などの軽自動車を製造・販売していた。
前史
編集愛知時計製造株式会社(現在の愛知時計電機)から航空機部門が分離した愛知航空機株式会社を前身とする。
1945年(昭和20年)8月15日の終戦により民需転換。
完成車メーカー時代
編集1946年以降
編集「ヂャイアント」や「コニー」の商品名でオート三輪及び軽商用車メーカーとして知られる。
オート三輪には、水冷エンジンや丸ハンドルや全天候型キャビンを自動車業界内で、いち早く採用した。
軽商用車は、ミッドシップ(当時はアンダーフロアと呼んだ)レイアウトを採用する等、先進的な設計で知られた。
1961年以降
編集全日本自動車ショウに試作軽乗用車「コニー・360コーチ」を出品する。
乗用車市場への進出を試みて、超小型車「コニー・グッピー」を発売するが、販売が予想を大きく下回り業績には結びつかなかった。
1962年9月決算では、1.4億円の営業赤字を計上した為、無配転落(復配は1975年3月期)に陥る。
メインバンクの日本興業銀行(当時)の仲介を伴って日産自動車と1962年11月に技術提携を締結する。
1965年3月には、日産自動車と本格的な業務提携に入り、2代目社長であった五明得一郎が相談役に退いた。
日産自動車の購買担当常務であった堀庫治郎が社長就任し、日産の持株比率は、1966年9月末には15%となり、筆頭株主となった。
日産自動車としては、当初から軽自動車メーカーの一社ではなく車両やエンジンの生産委託先及び協力メーカーの一社として愛知機械工業を活用する方針であり、日産出身社長としては初代の堀庫治郎も、日産の横浜第一工場長から愛知機械入りした後任の小畠三郎も生産技術者であった。そして日産の指導の下、原価管理などのノウハウが導入され、以前はプリンス自動車同様に総評系であった労働組合も「民主化」の結果、当時の日産自動車社長の川又克二と親密な関係にあった塩路一郎が率いる自動車労連の傘下に入るなど「日産化」が急速に進行した。
1965年以降
編集1965年発売のコニー・360ワイド以降の自動車生産については、新型車の開発が殆ど無くなった。
同業他社のスズキ、ダイハツ工業、1968年に日本興業銀行の仲介で日産自動車と提携した富士重工等を中心とした熾烈な新型車開発競争や販売合戦からは完全に脱落してしまう。
経営側は、「利益確保優先」と称して積極的な販売促進策も講じなかった事が災いし、結果的に「再建の足かせ」と迄評されるようになった。
1970年10月には自社ブランドでの自動車生産の撤退を余儀なくされ、特別損失40億6800万円を計上した為、堀社長が引責辞任した。
愛知機械工業の販売系列であった「日産・コニー店」は、1970年10月に自社ブランドでの自動車生産から撤退と同時に、日産自動車が生産販売する新規車種のチェリーの発売に合わせて、それまでの「日産・コニー店」の社名であった「日産コニー○○販売」から「日産チェリー○○販売」に社名変更されて「日産・チェリー店」に販売系列が変更された。
自動車生産の撤退後
編集日産・チェリーが3代目へのフルモデルチェンジを機にパルサーに車名変更された後も、従来通り「日産・チェリー店」の名称で存続され、広告上では「パルサー販売会社」又は「パルサー販売」と称されていたが、昭和60年代前半から平成初期にかけて、大半の「日産・チェリー店」が「日産・プリンス店」に統合されており、現在の日産・レッドステージ系列販売会社の礎の1つとなる。
自社ブランドでの自動車生産から撤退以降は、日産自動車の小型車のエンジン・トランスミッションの生産を手がけ、更にはバネット、セレナ、ラルゴ、サニートラック、サニーキャブ/チェリーキャブ、パオの完成車開発・生産までをも行ったが、1999年2月に車両事業継続が困難となった為、ユニット専門工場として再スタートを切るべく車両生産からの撤退が発表され、後に日産自動車が発表した経営再建計画「日産リバイバルプラン」に合流する形となり、2001年に港工場が閉鎖(同時に日産自動車村山工場、日産車体京都工場の乗用車製造ラインも閉鎖)されて完成車生産から撤退した。
当初は、永徳工場を閉鎖して生産設備を港工場に移設することになっていたが、工場閉鎖のみの場合より費用がかかるために方針を転換して港工場の閉鎖となった。港工場で生産されていたC24型セレナは2001年3月より日産自動車栃木工場に順次移管された。現在は、エンジン・トランスミッションの生産専業に徹して完成車生産は行っていないが、他メーカーへも販路を広げている。例を挙げると、三菱・ランサーエボリューションVIIIの6速マニュアルトランスミッションは愛知機械製であり、日産以外の自動車企業との初の取引でもあった。現在では、軽自動車用のCVT(無段変速機)の他、前述の三菱以外にマツダ、フォード・モーター、現代自動車[2]、ルノー、プロトンにもマニュアルトランスミッションを納入している。2007年12月に発売された日産・GT-R用のGR6型デュアルクラッチトランスミッションも愛知機械製である。
沿革
編集- 1943年2月 - 愛知時計製造株式会社(現在の愛知時計電機)から航空機部門が分離し、愛知航空機株式会社を設立。
- 1946年
- 1947年
- 1949年5月 - 愛知起業株式会社解散。第2会社が事業を引き継ぎ、新愛知起業株式会社を設立。
- 1952年12月1日 - 愛知機械工業株式会社に商号を変更。
- 1959年3月 - 自社ブランド軽自動車「コニー」製造・販売開始。初代AA27型は軽三輪車。
- 1960年9月 - 「ヂャイアント」の製造・販売を終了。
- 1961年5月 - 「コニーグッピー」を製造・販売開始。しかし、わずか1年足らずで生産終了。
- 1962年11月 - 日産自動車と提携開始。
- 1965年3月 - 愛知機械販売株式会社を設立。
- 1970年
- 2001年3月- 港工場でのセレナ製造を終了。車両製造から撤退
- 2012年3月 - 日産自動車の完全子会社となる。
生産品目
編集エンジン
編集トランスミッション
編集- FS6R31 - シンクロレブコントロール付き。日産・フェアレディZ Z34に搭載。
- F30A/F70A/F50A/F51A/F52A
- MFA60/MFA80
- W60A
- R30A/R31A
- MRA70
- GR6
生産設備
編集- 無人搬送車「CarryBee」
- 多機能モータセンサ
その他
編集事業所
編集かつての事業所
編集ブランド
編集完成車メーカーとして活動していた時代には、幾つかのブランドが用いられた。自社での事業撤退と共に廃止されている。
オート3輪の時代が「ヂャイアント」と「ヂャイアント・コニー」、軽4輪車に移行してからは、「コニー」が使われていた。
過去の生産車種
編集脚注
編集- ^ a b c d e f 愛知機械工業株式会社 第101期決算公告
- ^ Before-N トスカーニ#1(ヒュンダイ韓国向け公式サイト、朝鮮語、2021年9月19日閲覧) - 本項目ではトスカーニ(GK系ヒュンダイ・クーペ)の2.7リッター車に愛知機械製の6MTが搭載されたとある。
参考文献
編集- 愛知機械工業 編『愛知機械工業50年史』。