悦峯道章
悦峯道章(えっぽう どうしょう、1655年 - 1734年)は、江戸時代初期の僧。黄檗宗の僧で、黄檗宗総本山萬福寺の八代住持。
浙江省杭州府銭塘県に生まれる。「道章」は名で、俗性は顧氏。法名に法賢。貞享3年(1686年)に日本へ渡り、長崎興福寺住職となる。宝永4年(1707年)8月には江戸へ赴き将軍徳川綱吉に拝謁する。
将軍綱吉の側用人で大老格の柳沢吉保の帰依を受け、宝永7年(1710年)8月15日には、柳沢家家老薮田重守に招聘され甲斐国岩窪村[1]に創建された永慶寺の開山となる[2]。享保19年(1734年)に死去。
悦峯道章の頂相・書
編集奈良県大和郡山市の永慶寺には頂相「悦峯道章像」が残されている[3]。「悦峯道章像」は悦峯道章自身の賛文があり、享保元年(1716年)の作と記される[3]。紙本着色[3]。寸法は縦123.5センチメートル、横57.8センチメートル[3]。黄檗宗の頂像に特有な細密で写実的な特徴を有し、法被姿で曲録に腰掛け、正面を向く[3]。右手に杖、左手に払子を持つ[3]。賛文に記される享保元年は悦峯道章が黄檗山を辞した年で、黄檗山には宝永4年(1707年)に描かれた本図と同じ悦峯道章像が伝来している[3]。
また、甲府商家に伝来した大木家資料(美術資料は特に「大木コレクション」と呼ばれる。現在は山梨県立博物館所蔵)には悦峯道章の一行書や、同じ黄檗僧の高泉性潡の草書偈頌が残されている[4]。悦峯道章の一行書は紙本墨書。寸法は縦108.0センチメートル、横25.4センチメートル[5]。