後藤正晴

江戸時代後期の土佐藩士

後藤 正晴(ごとう まさはる、生年不詳 - 嘉永元年7月25日1848年8月23日〉)は、江戸時代後期の土佐藩士。土佐後藤家分家9代。家禄200石。通称は藤次、助右衛門。後藤象二郎の父[1]

来歴

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土佐藩士・橋本寅直の三男として、高知城下に生れる。母は後藤吉正(収五郎)の妹[2]

文政12年(1829年)12月25日、母方の従兄弟にあたる後藤正澄(後藤吉正の嫡男)が病床にあり、正澄の嫡子・後藤正保(広馬)が早世していたため、正澄の養子となる事を仰せ付けられた[1]

文政13年(1830年)閏3月21日、養父・正澄の跡目本知高200石のうち150石を下し置かれ、格式御馬廻りに任じられる[1]

天保5年(1834年)11月6日、当分、御火消方御用をもって、翌年3月末まで、御家中町方の火用心廻り番を務め、天保7年(1836年)2月9日、御扈従に任じられる[1]

天保12年(1841年)5月4日、右勤番を差免し、御馬廻りに任じられる。天保15年(1844年)12月10日、柄弦御差物役に任じられ、役料100石を下し置かれた[1]

弘化4年(1847年)9月1日、江戸において上御屋敷御用、大向き御用に任じられる。ただしそれまでの柄弦御差物役は料知高ともに差し戻された[1]

嘉永元年(1848年)7月25日、江戸藩邸にて病死[1]。墓所は青山霊園(1イ13-23)。

家系

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丸に一つ菱

後藤家の祖は、大職冠藤原鎌足の後裔で、藤原北家利仁流の美作後藤氏である。後藤家は南北朝時代から戦国時代にかけての200年間、美作国三星城を居城としたが、天正7年(1579年)5月に落城した。慶長6年(1601年後藤福基は、土佐藩主山内一豊が土佐から上洛する途中の大坂で、禄500石・御使母衣(従六位相当)で召抱えられた[1]

補註

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  1. ^ a b c d e f g h 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家
  2. ^ 寺石正路撰の『土佐名家系譜』(昭和17年刊)によって「後藤正澄(左近右衛門)の妹」と記される書籍があるが、同時代の藩政史料である『御侍中先祖書系圖牒』に「第九養子・助右衛門正晴。前名藤次。養父外姓之従弟。實は第八・橋本宅右衛門孝直二弟也」とあることから「後藤吉正(収五郎)の妹」が正しい。

参考文献

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先代
後藤正澄
土佐後藤家(分家)第9代
1830年 - 1848年
次代
後藤象二郎