張休
張 休(ちょう きゅう)は、中国三国時代の呉の人物。字は叔嗣。徐州彭城国の人。父は張昭。兄は張承。
張休 | |
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呉 揚武将軍 | |
出生 |
建安10年(205年) 徐州彭城国 |
死去 | 赤烏8年(245年) |
拼音 | zhāng xiū |
字 | 叔嗣 |
主君 | 孫権 |
生涯
編集20歳の頃、呉王孫権の太子となった孫登の側近として、諸葛恪・顧譚・陳表と共に採り立てられた。孫権の命で張昭から『漢書』の解釈を学び、それをまた孫登に講義した。孫登は自分の属官たちに対し、無官の者同士であるような簡略な礼を執り、張休らとは同じ車に乗って外出したり、1つの几帳の中で寝たりした。中庶子の官を経て、黄龍元年(229年)、孫登が皇太子に立てられると右弼都尉となり、張休ら4人は太子四友と称された[1]。
孫権が狩猟に出ると上疏してこれを諌めた。その文章が優れていたため、孫権はそれを張昭に見せて称えた。
嘉禾5年(236年)、張昭が亡くなった。兄の張承は既に功績を立て別に爵位を得ていたので、張休が爵位を継承した。
赤烏4年(241年)4月[2]、芍陂の役において魏の王淩と対戦した呉軍は劣勢となったが、張休と顧承が奮戦してこれを押し留めた。この時、全緒や全端といった将も活躍したが、張休ほどは功績を評価されなかったことから、全琮ら全氏の恨みを買った[3]。
同年5月、孫登が亡くなった。孫登は父の孫権に遺言を託し、その中で張休を、「頭脳明晰で的確な判断を下し、宮廷にあっては主君の腹心、地方に出ては主君の手足となれる」人物の1人として称え、重用するよう言い遺した[1]。太子府を離れた張休は侍中、羽林都尉を経て、揚武将軍に昇進した。
赤烏5年(242年)正月、姪(兄の張承の娘)の夫である孫和が立太子される。しかし8月にその弟の孫覇が魯王に立てられると、以降は両者の後継者争い(二宮事件)に巻き込まれていく[2]。
病床にあった孫権の代行として、孫和が宗廟で祭祀を行った時、その近くに住んでいた張休は、孫和を家に招いた。孫権の娘孫魯班は、孫和の母王夫人と対立していたことからこれを、「孫和は祭祀を行わず、妃の実家で謀議を凝らしている」と讒言。孫権の孫和に対する寵愛は冷めていった[4]。
全氏らをはじめとする孫覇の派閥に、芍陂の役で功績を捏造したと訴えられた張休は、交州に流罪に処された。さらに以前から対立していた孫弘の讒言を受け、赤烏8年(245年)、張休は自殺を命じられた。享年41。
家系図
編集● ┣━━━━━┓ 張昭 ● ┣━━┓ ┃ 張承 張休 張奮 ┣━━┓ 張震 孫和妻