廬井鯨
廬井 鯨(いおい の くじら[1])は、飛鳥時代の人物。近江軍の武将[2]。姓(カバネ)は造。壬申の乱(672年)において、大友皇子(弘文天皇)側の別将となり、中道で戦って敗れた。
廬井鯨『前賢故実』より | |
時代 | 飛鳥時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
主君 | 大友皇子 |
氏族 | 廬井造 |
経歴
編集廬井氏(五百井氏)は、近江国栗太郡廬井(現在の滋賀県草津市志津及び栗東市治田)の地名を由来とする氏族であるが[3]、出自は不詳[4]。
壬申の乱勃発時に廬井鯨がどのような地位にあったかは不明だが、大友皇子(弘文天皇)の側の将犬養五十君が倭(大和国)の敵軍に向けて南に進んだとき、その別将であった。
五十君は、村屋まで進んで陣営を置き、鯨に200の精兵を率いさせ、敵将大友吹負の本営を衝かせた。鯨の部隊は少数だったが、そのときは吹負の周りの兵力も少なかった。しかし、鯨の軍の前進は徳麻呂らが射る矢でとどめられた。そうするうちに、下道にあった味方の左翼が破れ、そこから三輪高市麻呂と置始菟の敵部隊が転じて来た。鯨の部隊は背後に敵をうけて敗走した。
鯨もまた白馬に乗って逃げたが、馬が泥田にはまった。吹負はこれを見て、甲斐の勇者に「あの白馬に乗る者は廬井鯨だ。急いで追って射よ」と命じた。甲斐の勇者が近づくと、鯨は急いで馬に鞭を打った。馬は泥田から抜け出し、逃げることができた。[5]
『日本書紀』において、その後の鯨に関する記載はない。