度羅楽
日本に伝わった系統不明の雅楽
概要
編集「度羅」については、耽羅(現在の済州島)か、あるいは中央アジアの大夏(トハラ)、あるいは タイに存在したドヴァーラヴァティー王国に比定する説などがあり、定説を見ていない。
楽師の数は、『令集解』に引用されている雅楽大属尾張浄足説では、儛師・歌師各1名ずつで、
- 「婆理儛」 - 6人のうち、2人で刀と楯を持って舞い、4人で鉾を持って立つ
- 「久太儛」 - 20人で舞う
- 「那禁女儛」 - 5人のうち、3人が儛人、2人が花取を演じる。
- 「韓、楚と女を奪う舞」 -20人のうち、5人が甲を著して刀を帯びる
というものであった。度羅楽は天平勝宝4年(753年)4月の大仏開眼会にも演奏されたという[1]。
正倉院御物の中に、婆理・久太の装束と大刀が保存されており、婆理の仮面は東大寺に残されている。
『続日本紀』によると、天平3年(731年)6月に「雅楽寮の雑楽生の員を定む」とあり、これにより楽生の数が決められている。それによると、度羅楽は62人であるが[2]、上述の尾張浄足の説によると、儛師・歌師を除く儛人の数は51人となっている。楽師の数は、大同4年(809年)3月の格でも「度羅楽師二人〈鼓師・儛師〉」とあり、変更されてはいない[1]。
天平宝字7年(763年)1月の渤海使の饗応の際に、「吐羅」楽は唐楽・林邑楽、そのほか東国・隼人の楽とともに演奏されており、その折に朝廷は安史の乱で唐の皇帝玄宗・粛宗が相次いで崩御したことなどを聞かされている[3]。