平岡敏男
平岡 敏男(ひらおか としお、1909年(明治42年)9月18日 - 1986年(昭和61年)8月6日[1])は、日本のジャーナリスト、実業家。
ひらおか としお 平岡 敏男 | |
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生誕 |
1909年9月18日 日本・北海道旭川市 |
死没 | 1986年8月6日(76歳没) |
出身校 | 東京帝国大学経済学部 |
職業 | ジャーナリスト、実業家 |
栄誉 |
ベルギー王冠コマンドール勲章(1977年) ハンガリー文化功労章(1979年) マスコミ功労者顕彰(1991年)[1] |
毎日新聞社社長(1976年2月 - 1980年12月)。
経歴
編集北海道旭川市出身(留萌市生まれ[2])。弘前高等学校では新聞部に所属し、一期下の太宰治とも親交があった。1932年に東京帝国大学経済学部を卒業し、東京日日新聞社(後の毎日新聞東京本社)に入社[1]。経済部記者、東京本社経済部長、論説委員、ロンドン支局長などを経て、1963年取締役。1966年西部本社代表、1968年常務。
1976年2月、巨額の負債を抱え、経営危機に瀕していた毎日新聞社の社長に就任[1]。永野重雄に救済を仰ぎ[3][4]、翌年「新旧分離方式」の経営再建の方針を固め、登記上の本社で発行部門を担当していた大阪本社を、負債の整理・清算に専念させ(「株式会社毎日(旧社)」)、東京本社(編集部門)と経営を一本化させる形で、新たに東京に新会社「毎日新聞株式会社(新社)」を設立した。数百億と言われた負債を解消し、1985年には新旧両社合併を果たすことが出来たのは、平岡の類いまれな経営手腕による所が大きいといわれる。平岡は「毎日新聞再建に示された永野さんの恩義は、今でもひしひしと胸に迫るものがある」と述べている[3]。
1980年会長。同年横綱審議委員会委員。ほかにラジオ福島会長、パレスサイドビルディング社長などを務めた[1]。著書に『焔の時灰の時』などがある。
著書
編集- 『新經濟十二講』高山書院、1940年12月。
- 『めぐりあい』平岡敏男、1970年。
- 『焔の時灰の時』毎日新聞社、1979年9月。
- 『毎日新聞私の五十年』毎日新聞社、1982年12月。
追想録
編集- 平岡敏男追想録刊行会 編『平岡敏男 追想録』平岡敏男追想録刊行会、1987年8月。
脚注
編集参考文献
編集- 『新人国記 第3巻 (宮城県・群馬県・岐阜県・岡山県・北海道)』朝日新聞社、1983年3月。
- 『講談社 日本人名大辞典』 講談社、2001年12月。ISBN 978-4062108003。
- 毎日新聞130年史刊行委員会 『「毎日」の3世紀 : 新聞が見つめた激流 130年』上・下・別巻 毎日新聞社、2002年2月。