崔挺
経歴
編集崔郁(崔琨の子)の子として生まれた。若くして学業に励み、礼の作法を守り、資産を人に譲って弟の崔振とともに清貧な生活を営んだ。秀才に挙げられ、射策科に及第し、中書博士に任じられ、中書侍郎に転じた。書が得意だったことから、孝文帝の命を受けて長安で文明太后の父の燕宣王の碑文を書き、泰昌子の爵位を受けた。登聞令に転じ、典属国下大夫の位を受けた。律令制定の議論に参加し、褒賞を受けた。
494年(太和18年)、宋王劉昶が彭城に駐屯すると、崔挺は仮の立義将軍となり、劉昶の下で大将軍府長史となった。病のため辞職し、代わって王粛が長史となった。後に昭武将軍・光州刺史に任じられた。495年(太和19年)、孝文帝が兗州に幸すると、崔挺は行在に召し出され、辺境統治の方策を諮問されて、その回答が孝文帝に喜ばれた。光州に帰ると、散騎常侍の張彝が光州を巡察して、崔挺の統治を賞賛した。定州大中正の任を兼ねた。
499年(太和23年)、宣武帝が即位すると、洛陽への帰還を請願した。500年(景明元年)、惜しまれながら光州刺史の任を退任した。501年(景明2年)、北海王元詳が司徒・録尚書事となると、崔挺は司馬として召され、固辞したが許されず、やむなく仕えることとなった。元詳には前官の光州の名で呼ばれ、優待の礼を受けた。503年(景明4年)、死去した。享年は59。この年の冬に輔国将軍・幽州刺史の位を追贈された。諡は景といった。