崇道神社
京都府京都市左京区にある神社
この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2024年1月) |
崇道神社(すどうじんじゃ)は、京都市左京区上高野にある神社である。社格は旧村社。
崇道神社 | |
---|---|
所在地 | 京都府京都市左京区上高野西明寺山34 |
位置 | 北緯35度3分56.2秒 東経135度48分2.4秒 / 北緯35.065611度 東経135.800667度座標: 北緯35度3分56.2秒 東経135度48分2.4秒 / 北緯35.065611度 東経135.800667度 |
主祭神 | 早良親王 |
社格等 | 旧村社 |
創建 | 貞観年間(859年 - 877年) |
例祭 | 5月5日 |
地図 |
祭神
編集- 早良親王(崇道天皇)
歴史
編集社伝によれば、785年(延暦4年)9月、長岡京造宮使であった藤原種継が暗殺された事件に連座したとされる早良親王(崇道天皇)の霊を慰めるため貞観年間(859年〜877年)に創建されたという。1915年(大正4年)に近隣にあった式内社とされる出雲高野神社・伊多太神社・小野神社の3社が合祀された。
境内社
編集文化財
編集国宝
編集- 金銅小野毛人墓誌(附:銅函1合(延宝元年11月在銘)、発掘関係書類1通) - 昭和36年(1961年)4月指定
- 奈良時代の墓誌で、銅製・鍍金。寸法は長さ58.9センチメートル、幅5.9センチメートル。江戸時代の慶長18年(1613年)に崇道神社背後の山中で発見され、土葬石室に埋納されていたという。延宝元年(1673年)に銅製墓誌函が作られ、宝永2年(1705年)には発見に関する文書が記されている。元禄10年(1697年)に再び埋納され、1913年(大正2年)に墓の調査に伴い再び発掘された。墓誌銘は次の通り。
- (表)飛鳥浄御原宮治天下天皇 御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上
(裏)小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬 - 被葬者の小野毛人は、『続日本紀』和銅7年(714年)4月条に拠れば遣隋使である小野妹子の子で、天武朝期には太政官兼刑部大卿の地位にあったという。墓所は山城国愛宕郡小野郷にあたり、小野氏の故地に比定される。毛人の墓は天武天皇6年(677年)に作られているが、墓誌が作製されたのは、銘文中の官職や姓などの用語から見てやや時代が下り、毛人の子の小野毛野による追納で、持統朝期であると考えられている。墓誌は京都国立博物館に寄託されている[1]。
脚注
編集- ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝』13(朝日新聞社、1997)、pp.6 - 94 - 95(筆者は久保智康)
参考文献
編集- 『週刊朝日百科 日本の国宝』40、朝日新聞社、1997