島津 朝久(しまづ ともひさ、? - 文禄2年9月12日1593年10月6日))は、戦国時代薩摩武将。薩摩島津氏の分家、豊州家6代当主。

父は5代当主島津忠親。母は禰寝尊重の娘。兄に北郷氏当主となった北郷時久がいる。通称藤二郎。官は豊後守。室は御屋地(千鶴。島津義弘の長女)、子に島津久賀長寿院島津家久(初代薩摩藩主)の養女、松平定行の室)ら。

天正年間に島津義久により大隅平房・市成(現鹿児島県鹿屋市輝北町)を賜りその領主となる。天正6年(1578年)、島津家が伊東氏を討ち日向を手に入れると宮崎の300町を拝領する。その後、島津義弘に従い真幸院飯野、更に馬関田に移り、大友氏との耳川の戦いでも活躍した。

同14年(1586年)、島津忠長らと共に筑前岩屋城攻めにも参加している。しかし秀吉の九州征伐の際の根白坂の戦いで負傷し、都於郡の島原にて養生後に馬関田に帰り、その後は平松上水流(現・姶良市)へと移った。文禄元年(1592年)、文禄の役では朝鮮へ渡ったが、翌年巨済島で病没した。法名は「月江善桂大禅定門」。
総禅寺跡(姶良市帖佐)に夫妻の墓が現存しているが、廃寺となっており整備されていない[1]

脚注

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  1. ^ 史跡”. 姶良市. 2024年12月1日閲覧。