島津 久信(しまづ ひさのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将薩摩国島津氏の分家・垂水島津家2代当主(4代[1]とも)。

 
島津久信
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正13年4月4日1585年5月3日
死没 寛永14年5月11日1637年7月3日
改名 菊寿丸(幼名)→忠仍→久信
別名 信久、通称:又四郎、相模守
戒名 昌嶽元盛居士
主君 島津義弘島津家久
薩摩藩
氏族 島津氏(垂水家)
父母 父:島津彰久、母:島津義久次女・玉姫
正室:島津家久三女・宗鉄
久敏久章
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天正13年4月4日1585年5月3日)、大隅国清水城で生まれた。

文禄4年12月27日(1596年1月26日)、鹿屋・大姶良所々8千石余を賜わり、慶長2年(1597年)に鹿屋の一ノ谷城に移った[2]

慶長8年(1603年)、祖父で垂水城主の島津以久徳川家康より佐土原を与えられた。この時、以久は本領の垂水の地を久信に譲った。慶長9年12月15日1605年2月2日)に久信は垂水城に移った。鹿屋は兼領した。

慶長15年(1610年)に以久が没すると、家康は佐土原を久信に与えようとしたが、久信がこれを断ったたため、以久の三男である島津忠興が佐土原藩主を継いだ[2]

慶長16年(1611年)、居城を垂水城から林之城(今の垂水市立垂水小学校)に移した[2]

島津宗家16代当主・島津義久には跡継ぎとなる男子がなく、また義久の三女・亀寿島津忠恒(家久)との間にも子はなかったため、義久は外孫である久信も後継者の一人と考えたが、家臣の反対に遭い頓挫した。

嫡子で島津豊久の甥でもある久敏の廃嫡を画策した挙句に、それを諫めた重臣を手討ちにしたことで元和2年(1616年)、隠居を命じられ、久敏に家督を譲る。

寛永14年5月11日1637年7月3日)、鹿屋にて死去した[3]。享年53。鹿屋の安善寺に葬られたが、昭和46年(1971年)に垂水心翁寺跡の垂水島津家墓所に改葬された[2][4]

参考文献

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  • 「垂水領主島津家家譜」『垂水市史料集(六)』垂水市教育委員会、1985年3月

脚注

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  1. ^ 町田満男・入佐義則『垂水史料集(六)』垂水市教育委員会
  2. ^ a b c d 垂水市史編集委員会 編『垂水市史』 上巻、1974年。 
  3. ^ 毒殺されたとの風評がある[要出典]
  4. ^ 垂水島津家墓所』垂水市https://www.city.tarumizu.lg.jp/bunka/kurashi/kosodate/roman/tarumzusimadubosyo.html