岡山 弥清(おかやま みつきよ)は、江戸幕府旗本高家吉良義弥の次男。

 
岡山弥清
時代 江戸時代前期
生誕 不詳
死没 寛文10年4月12日1670年5月30日
別名 八兵衛
戒名 了真
墓所 万昌院華蔵寺 (西尾市)
幕府 江戸幕府御書院番士
氏族 清和源氏足利氏吉良氏庶流
父母 父:吉良義弥、母:今川範以の娘
兄弟 吉良義冬岡山弥清、女(松平忠良室)
正室:品川高久の娘
今川氏堯弥信 ほか
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生涯

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寛永9年(1632年)9月28日、将軍徳川家光に初謁。寛永13年(1636年)12月27日から書院番士として出仕。寛永16年(1639年)12月13日から切米300俵を支給された。弥清は吉良家から別家を立てて岡山を称しているが、吉良家の所領・吉良荘に岡山の地名がある(現:愛知県西尾市吉良町岡山)。

 
岡山弥清の墓(西尾市華蔵寺)

寛文10年(1670年)4月12日没。享年は不詳。吉良家菩提寺である江戸市谷万昌院(のち牛込に移転)に葬られた。

養子の弥信が旗本岡山家を継いだが、弥信はのちに禄を離れている。

系譜

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父母
子女

寛政重修諸家譜』には、早世した2子を含む実子4名と、養子1名が記されている。

  • 某(早世)
  • 某(早世)
  • 今川氏堯(いまがわ うじなり)
    今川直房(範以の子)の養子となり、高家今川家を継いだ。
  • 養子:岡山弥信(おかやま みつのぶ)
    主税、八兵衛、民部。実父については「某氏」としか記されていない。寛文10年(1670年)7月8日に家督を継承、小普請組に入る。延宝4年(1676年)に御書院番士になるが、「勤士の志なきにより」[1]元禄5年(1692年)3月28日に切米を収公。吉良義央のもとに寄寓した。
  • 岡山清常(おかやま きよつね)
三左衛門を称した。

参考文献

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  • 『寛政重修諸家譜』
  1. ^ 『寛政重修諸家譜』