小谷津任牛
昭和時代の日本画家
小谷津 任牛(こやつ にんぎゅう、1901年(明治34年)9月4日 - 1966年(昭和41年)5月30日)は、昭和時代の日本画家。本名は小谷津 三郎[1]。
経歴・人物
編集東京四谷仲町に生まれる[1]。小学校卒業後、日本郵船に勤める[2]。大倉商業学校夜学専修科にて学び、卒業後日本郵船社員となる[2]。勤務のかたわら日本大学法文科に入学するが、のち川端画学校日本画部に入る[2]。
在学中の1927年(昭和2年)院展で「薄暮」が初入選[3]。翌年の1928年(昭和3年)より小林古径に師事する[1][3]。1930年(昭和5年)院展に「緩歌漫舞」を出品し日本美術院院友となる[1][2]。以後院展に連年入選し、1940年(昭和15年)日本郵船を退職し画業に専念する[1][2]。1942年(昭和17年)「珠数掛桜」、1946年(昭和21年)「うたげ」が日本美術院賞、日本美術院同人となる[1][2][3]。1959年(昭和34年)塩出英雄らと藜会を結成、1961年(昭和36年)より日本美術院評議員となった[1]。1966年(昭和41年)5月30日、胃潰瘍のため死去[2]。64歳。