小笠原信之
小笠原 信之(おがさわら のぶゆき)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将、大名。武蔵本庄藩初代藩主。下総古河藩初代藩主。信嶺系小笠原家初代。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 元亀元年(1570年) |
死没 | 慶長19年4月26日(1614年6月3日) |
別名 | 小平次郎(通称) |
戒名 | 龐巌了温 |
墓所 | 埼玉県本庄市中央の開善寺 |
官位 | 従五位下、左衛門佐 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家康→秀忠 |
藩 | 武蔵本庄藩主→下総古河藩主 |
氏族 | 酒井氏→小笠原氏 |
父母 | 父:酒井忠次、養父:小笠原信嶺 |
兄弟 |
酒井家次、本多康俊、信之、 松平久恒、酒井忠知 |
妻 | 正室:小笠原信嶺の娘 |
子 |
政信、信政(次男)、 娘(青山幸成正室)、娘(高木貞勝室)、 娘(水野忠貞正室) |
生涯
編集元亀元年(1570年)、三河国で徳川四天王の一人・酒井忠次の三男として生まれる。少年の頃より徳川家康に仕え、小田原征伐の際には父と共に参戦している。
天正16年(1588年)、伊那小笠原氏の当主・小笠原信嶺の娘を娶ってその養嗣子となり、慶長3年(1598年)、養父の死により家督を継いで本庄藩初代藩主となる(家康の命により養嗣子になったとされる)。徳川秀忠の上杉景勝の討伐に従い、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、信州上田城攻めにも加わっている。この頃、実父忠次の為に円心寺を建立した。十数年の間本庄を領していたが、慶長17年(1612年)になると古河へ加増移封された(これにより本庄藩は廃藩となった)。慶長19年(1614年)に死去。享年45。死後、その家督は長男の政信が継いだ。
系譜
編集父母
正室
- 小笠原信嶺の娘
子女
参考文献
編集- 「寛政重修諸家譜 巻第195」