小日向白朗
日本出身の中国の馬賊(1900-1982)
小日向 白朗(こひなた はくろう、1900年(明治33年)1月31日 - 1982年(昭和57年)1月5日)とは、単身で中国大陸に渡り、捕虜から「中国全土の馬賊」の総頭目にまで上り詰めた日本人の馬賊である。新潟県三条市出身。本名は健松。中国名は尚旭東。民衆からは小白竜とも呼ばれた。
人物・生涯
編集シベリア単騎横断で有名な福島安正中佐にあこがれ、中国、チベットを調査しながら、ドイツを目指そうと17歳で中国に渡る。中国では関東軍の坂西利八郎大佐に気に入られ、中国語、射撃などの訓練に励んだ。
20歳でモンゴルのウランバートルを目指す旅に出たが、馬賊に襲われて捕虜となり、命と引き替えに馬賊の下働きとなる。数多くの戦いで頭角を現したのち、馬賊の聖地である千山無量観で道教と武当派の中国拳法などの修行をつみ、大長老の葛月潭老師より「尚旭東(しゃんしゅいとん)」の名と破魔の銃「小白竜(しょうぱいろん)」を授かった。この瞬間、小日向白朗は中国全土の馬賊の総頭目となった。
大本教の出口王仁三郎がモンゴル入り後に張作霖に捕らえられたとき、出口の釈放に奔走した。
軍の特務機関で活動していく。
戦後は国民党軍に逮捕され、漢奸罪で起訴されるが、日本国籍を有していることが認められ、免訴となる。
池田勇人内閣の情報機関の顧問を務めた。