寒河江知広
寒河江 知広(さがえ ともひろ、旧字体:知廣)は戦国時代の武将。寒河江氏13代。寒河江城主6代。
寒河江知広・同夫人の墓(澄江寺) | |
時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 明応3年7月28日(1494年10月5日) |
改名 | 法名:澄江寺殿高嶽棟公 |
別名 | 太郎四朗 |
墓所 | 澄江寺(山形県寒河江市) |
官位 | 出羽守 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 足利義尚、足利義稙 |
氏族 | 大江氏親広流寒河江氏 |
父母 | 父:寒河江為広、母:不詳 |
兄弟 | 知広、又四郎、男 |
妻 | 不詳 |
子 | 宗広、宗綱、広直、中野氏妻、竹姫 |
生涯
編集寒河江為広の長男として生まれ、文明18年(1486年)父の死により寒河江氏を継いだ。
長享3年(1489年)長州大寧寺に寺領を寄進し子院として澄江院を建立した。二親供養のためであったという。当時父の叔父にあたる全岩東純が大寧寺七世住職であった縁により行ったものである。同年大沼大行院の再建を行う[1]。
明応3年(1494年)7月28日に没し跡を寒河江宗広が継いだ。長州に建立された澄江院であったが、没後夫人が願い出て寒河江に移し瑞龍山澄江寺と名を変えたという[2]。
系譜
編集脚注
編集関連資料
編集- 寒河江市史編纂委員長 阿部酉喜夫『寒河江大江氏』、1988
- 寒河江市史編さん委員会『寒河江市史 上巻』、1994
- 寒河江市史編さん委員会『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』、2001