宿勤 明達(しゅくきん めいたつ、生年不詳 - 531年)は、北魏の反乱指導者。本貫高平郡

経歴

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524年正光5年)、胡琛の反乱に参加し、その部将となった。10月、北魏の豳州夏州北華州に進攻した[1]525年孝昌元年)、万俟醜奴とともに北魏の涇州を攻撃した。北魏の将軍の盧祖遷や伊瓫生を破り、崔延伯を敗死させた[2][3]530年永安3年)、北魏の爾朱天光が平涼を攻め落とすと、明達は降伏を願い出た。まもなく再び反乱を起こした[4]賀抜岳が爾朱天光の命を受けて討伐におもむくと、明達は東夏州に逃れた[5][6]531年普泰元年)4月、爾朱天光に敗れて、洛陽に送られ、斬られた[7][8][4][9]

脚注

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  1. ^ 魏書』巻9 粛宗紀
  2. ^ 『魏書』巻73 崔延伯伝
  3. ^ 北史』巻37 崔延伯伝
  4. ^ a b 『魏書』巻75 爾朱天光伝
  5. ^ 周書』巻14 賀抜岳伝
  6. ^ 『北史』巻49 賀抜岳伝
  7. ^ 『魏書』巻11 廃出三帝紀
  8. ^ 『北史』巻5 魏本紀第5
  9. ^ 『北史』巻48 爾朱天光伝