宮田隆
宮田 隆(みやた たかし、1913年12月16日[1] - 1982年7月8日)は、島根県隠岐郡海士町出身の作詞家[2]。放送劇やコント、随筆、シナリオ等も執筆。
宮田 隆 | |
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生誕 | 1913年12月16日 |
出身地 | 日本・島根県隠岐郡海士町 |
死没 | 1982年7月8日 |
学歴 | 島根県立商船水産学校製造科卒業 |
ジャンル |
歌謡曲 新民謡 |
職業 |
作詞家 劇作家 |
人物
編集1913年、隠岐諸島で生まれる。父は小学校長。島根師範学校(現在の島根大学)に入学するが肺結核を病み中退。完治した後、島根県立商船水産学校(現在の島根県立隠岐水産高等学校)製造科に編入学した。商船水産学校在学中に取材のために隠岐を訪れた西條八十を父が案内したことから交流が生まれ、西條が主宰する詩謡雑誌「蝋人形」に投稿するようになる。1932年、玉造温泉の新民謡公募に応募した「玉造小唄」が一等入選し、本格的に作詞家としての活動を開始。商船水産学校を1933年3月に卒業した後は、兵庫県庁に勤めた[1][2]。
戦後、復員すると島根県庁に勤務。その傍ら、日本詩人クラブ、日本音楽著作権協会に所属して、新民謡や歌謡曲を作詞した。1962年、東京オリンピックの際に公募された「東京五輪音頭」で、2千以上の応募の中から一等入選し一躍有名になる[2]。
孫はホルン奏者の宮田一彦。