宮島 健一(みやじま けんいち、1895年7月5日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11]。本名菱田 勇吉(ひしだ ゆうきち)[1][8][2]、旧芸名宮島 憲一[1][2][6][9]宮島 健弌[5]新劇の「舞台協会」出身でありながら、日活向島撮影所においては新派に組して脱退、という若いスター時代の経歴を持ち、戦前・戦中の松竹蒲田撮影所松竹大船撮影所、戦後の大映東京撮影所のバイプレーヤーとして知られる[1]

みやじま けんいち
宮島 健一
宮島 健一
1923年の写真。
本名 菱田 勇吉 (ひしだ ゆうきち)
別名義 宮島 憲一
宮島 健弌
生年月日 (1895-07-05) 1895年7月5日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市
身長 170.0cm
職業 俳優
ジャンル 新劇新派劇映画時代劇現代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1912年 - 1965年
配偶者
著名な家族 由利健次 (義弟)
主な作品
永遠の謎
受賞
「映画の日」永年勤続功労章(1958年)
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人物・来歴

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1895年明治28年)7月5日東京府東京市に生まれる[1][8]。『現代俳優名鑑』(揚幕社)には、同年1月21日生まれとされており、出生地も「名古屋市傳馬町三丁目」とあり、同地は出生時点でいえば愛知県愛知郡熱田町大字伝馬町(現在の同県名古屋市熱田区伝馬)である[2]

旧制専門学校(現在の新制大学)に進学したが中途退学する[1][3]。満17歳を迎える1912年(明治45年)、埼玉県北足立郡大宮町(現在の同県さいたま市大宮区あるいは北区)にあった吾妻座に出演したのが初舞台である[2]。その後、1914年(大正3年)、前年に加藤精一森英治郎、横川唯治(山田隆也)、佐々木積らによって結成された「舞台協会」に参加する[1][3]

新劇の舞台俳優としてのキャリアを積むが、『世界のキネマスター』(報知新聞社)によれば1919年(大正8年)[3]、『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)によれば1920年(大正9年)に桝本清の紹介によって、新派の俳優として日活向島撮影所に入社、同年4月23日に公開された田中栄三監督の『恋慕流し』で映画界にデビューした[1]。1922年(大正11年)12月、田中栄三が監督した『京屋襟店』に出演、完成後の試写後の夜に、藤野秀夫衣笠貞之助横山運平島田嘉七東猛夫ら幹部俳優13名が集団退社の辞表を提出、国際活映(国活)に引き抜かれる事件が起きるが、宮島もこれに連座し、国活に電撃的に移籍している[1][5][6][9]。『現代俳優名鑑』によれば、当時、宮島は浅草区千束町一丁目120番地(現在の台東区西浅草3丁目)に住み、身長は5尺6寸1分(約170.0センチメートル)、体重16貫匁(約60.0キログラム)、常用煙草は敷島で、酒はビールであるといい、当時の宮島にとっての代表作は、『永遠の謎』(監督若山治、1922年)における「薗部子爵」役であるという[2]

1923年(大正12年)4月には国活が経営危機に陥り、衣笠貞之助、横山運平、島田嘉七らとともに、京都に牧野省三が設立したマキノ映画製作所へ移籍、同社の設立第1作であり、衣笠の監督作である『二羽の小鳥』に出演、同作は、同年6月1日に公開された[1][5][6]。1924年(大正13年)7月、同社は東亜キネマに合併され、同撮影所は東亜キネマ等持院撮影所となり、同年10月、新たに入社したトラブルメーカー立石駒吉ら率いる帝国キネマ演芸(帝キネ)が大量のヘッドハンティングを実施し、宮島はこれに応じて帝キネに移籍する[1][5][6]。宮島のいた小阪撮影所は1925年(大正14年)に閉鎖され、立石によって選別されたメンバーだけが東邦映画製作所に移籍したが、同社はまもなく解散、宮島は東亜キネマに戻っている[1][5][6]

1928年(昭和3年)には、東京に戻り、松竹蒲田撮影所に移籍した[1][5][6]。1936年(昭和11年)1月15日、同撮影所は、神奈川県鎌倉郡大船町(現在の同県鎌倉市大船)の松竹大船撮影所(現存せず)に全機能を移転、宮島も異動になった[1][5][6]第二次世界大戦の勃発後も、しばらくは出演作がみられる[5][6]

戦後は、1948年(昭和23年)から大映東京撮影所(現在の角川大映撮影所)に所属し、多くの作品で脇役・端役を務めた[1][5][6][8][11]。1958年(昭和33年)12月1日には、第2回「映画の日」中央大会が開催され、宮島は映画業界に40年以上勤務した功績が認められ、永年勤続功労賞を受章する[12]。満70歳となった1965年(昭和40年)7月31日に公開された『六人の女を殺した男』(監督島耕二)が、記録に残る最後の出演作である[1][5][6][8][11]。その6年後、1971年(昭和46年)3月1日に限定発行された『回想・マキノ映画』(マキノ省三先生顕彰会)において、去る1970年(昭和45年)7月25日に「マキノ省三先生像」が京都府京都市北区等持院北町にある等持院へ遷座したことに伴い、存命人物として、市川右太衛門片岡千恵蔵杉狂児岡島艶子らと共に当時の思い出を寄稿している[13]。晩年の宮島の消息は不明だが、満90歳となる1986年(昭和61年)2月の時点では存命であったといい、当時現存最長寿の日本の男優とされていた[1][14]没年不詳

フィルモグラフィ

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クレジットはすべて「出演」である[5][6]。公開日の右側には役名[5][6]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[11][15]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。

日活向島撮影所

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1920年代、20代後半ころの写真。

すべて製作は「日活向島撮影所」、配給は「日活」、すべてサイレント映画、特筆以外「宮島憲一」名義である[5][6][9]

国活巣鴨撮影所

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すべて製作は「国活巣鴨撮影所」、配給は「国際活映」、すべてサイレント映画、すべて「宮島憲一」名義である[5][6]

マキノ等持院撮影所

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すべて製作は「マキノ等持院撮影所」、配給は「マキノ映画製作所」、すべてサイレント映画、以降すべて「宮島健一」名義である[5][6]

東亜キネマ等持院撮影所

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すべて製作は「東亜キネマ等持院撮影所」、配給は「東亜キネマ」、すべてサイレント映画である[5][6]

  • 宵夜町心中』:監督二川文太郎、1924年7月11日公開 - 綱船の三五兵衛
  • 愛の牢獄』:監督阪田重則、1924年7月25日公開 - 主演、「宮島健弌」名義
  • 恋とはなりぬ』:監督衣笠貞之助、1924年9月19日公開 - 「宮島健弌」名義
  • 死よりも哀し』:監督上月吏、製作東亜キネマ甲陽撮影所、1924年10月1日公開 - 主演
  • 『足』:監督衣笠貞之助、1924年10月1日公開 - 「宮島健弌」名義
  • 関の夫婦松』:監督衣笠貞之助、1924年10月31日公開 - 主演、「宮島健弌」名義

帝国キネマ小坂撮影所

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1925年(大正14年)、満30歳ころの写真。

特筆以外はすべて製作は「帝国キネマ小坂撮影所」、配給は「帝国キネマ演芸」、すべてサイレント映画である[5][6]

東亜キネマ

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すべて製作は「東亜キネマ等持院撮影所」(京都撮影所)あるいは「甲陽撮影所」、配給は「東亜キネマ」、すべてサイレント映画である[5][6]

等持院撮影所
甲陽撮影所
京都撮影所
  • 善玉悪玉』:監督米沢正夫、1927年10月7日公開 - 主演
  • 思ひ出』:監督根津新、1927年11月17日公開
  • 愛怨地獄』:監督米沢正夫、1927年製作・公開 - 主演
  • 勇ましき兄』:監督根津新、1928年1月9日公開 - 主演
  • 恋愛二重奏』:監督根津新、1928年3月15日公開 - 小宮路夫
  • 阪東侠客陣 第一篇』:監督仁科熊彦、1928年4月1日公開 - 兄麟四郎
  • 『女王蜂』:監督根津新、1928年4月8日公開 - 主演
  • 孤児は悲し』:監督根津新、1928年5月20日公開 - 主演
  • 山侠悲話』:監督根津新、1928年6月7日公開 - 主演
  • 『女犯』:監督西本武二、1928年6月11日公開 - 主演
  • 阪東侠客陣 中篇』:監督仁科熊彦、1928年6月14日公開 - 兄麟四郎
  • 『恋文』:監督根津新、1928年7月14日公開
  • 阪東侠客陣 最終篇』:監督仁科熊彦、1928年9月15日公開 - 兄麟四郎
  • 新生の声』:監督永井健、1928年製作・公開 - 宮本修作
  • 人生行路』:監督井出錦之助、1928年製作・公開
  • 旅人告白』:監督井出錦之助、1928年製作・公開 - 主演

松竹蒲田撮影所

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東京の合唱』(1931年)出演時、満36歳。谷麗光(フレーム外)の「秘書」役。
 
生さぬ仲』(1932年)出演時、満37歳。奈良眞養(後ろ頭)の「秘書」役。

特筆以外すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、配給は「松竹キネマ」、特筆以外はすべてサイレント映画である[5][6]

松竹大船撮影所

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すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、特筆以外すべて配給は「松竹キネマ」、以降すべてトーキーである[5][6]

大映東京撮影所

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静かなる決闘』(1949年)公開時のポスター。
 
稲妻』(1952年)公開時のポスター。
 
薔薇いくたびか』(1955年)公開時のポスター。

特筆以外すべて製作は「大映東京撮影所」、すべて配給は「大映」である[5][6][8]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r キネマ旬報社[1979], p.576-577.
  2. ^ a b c d e f 揚幕社[1923], p.37.
  3. ^ a b c d 報知[1925], p.309.
  4. ^ 宮島健一jlogos.com, エア、2013年3月13日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 宮島健一日本映画データベース、2013年3月13日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 宮島健一宮島憲一、日本映画情報システム、文化庁、2013年3月13日閲覧。
  7. ^ 宮島健一宮嶋健一、映連データベース、日本映画製作者連盟、2013年3月13日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g 宮島健一KINENOTE, 2013年3月13日閲覧。
  9. ^ a b c d 宮島健一宮島憲一日活データベース、2013年3月13日閲覧。
  10. ^ a b c 宮島健一、映画データベース、東宝、2013年3月13日閲覧。
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh 宮島健一東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年3月13日閲覧。
  12. ^ 『読売新聞』昭和33年12月1日付。
  13. ^ マキノ省三先生顕彰会[1971], p.150.
  14. ^ キネマ旬報社[1986], p.142.
  15. ^ 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年3月11日閲覧。
  16. ^ 春琴抄 お琴と佐助、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年3月13日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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