宗像政
日本の政治家、官僚
宗像 政(むなかた ただす、嘉永7年1月2日[1](1854年1月30日) - 大正7年(1918年)2月7日)は、日本の政治家、官僚。衆議院議員および貴族院議員、県知事。別名、田村 政。
宗像 政 むなかた ただす | |
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生年月日 | 1854年1月30日 |
没年月日 | 1918年2月7日(64歳没) |
前職 | 熊本藩士 |
所属政党 |
相愛社(1882) 立憲革新党(1894) 立憲政友会(1914-1917) |
衆議院議員 | |
選挙区 | 熊本5区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1894年9月1日 - |
衆議院議員 | |
選挙区 | 熊本県郡部区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1915年3月25日 - |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1917年12月26日 - 1918年2月7日 |
人物
編集先祖は宗像大宮司で、細川家家臣となった。父・三右衛門景敬の二男で、家は三百石取り。西南戦争では、宮崎八郎、有馬源内らの熊本協同隊に加わった。民権運動時代は、相愛社社員として徳富蘇峰の同志。横井小楠の高弟で第1回総選挙以来衆議院議員を務めた山田武甫(立憲自由党所属)の死去した後を継承して立候補した。第2次松方正義内閣の時、埼玉県知事に任じられ、以後、地方官を歴任した。
略歴
編集- 1870年(明治3年) - 藩費で選抜派遣生として宮崎八郎らとともに上京。
- 1872年(明治5年) - 開拓使札幌学校に入学。同校廃止とともに開拓使の東京芝学校に転じる。
- 1875年(明治8年) - 病気のため退学し、熊本に帰る。
- 1877年(明治10年) - 西南戦争で旧薩摩藩士に従い、乱後に岡山監獄に投ぜられる。
- 1882年(明治15年) - 出獄し、熊本の政治結社相愛社に加盟。自由民権運動の活動をする。
- 1884年(明治17年) - 東亜学館を設立する。
- 1894年(明治27年)9月1日 - 第4回衆議院議員総選挙に熊本5区から立候補し、当選。立候補名は田村政。
- 1897年(明治30年)4月7日 - 1898年(明治31年)1月26日 - 埼玉県知事に任ぜられる。
- 1899年(明治32年)1月21日 - 青森県知事に任ぜられる。
- 1901年(明治34年)4月17日 - 1902年(明治35年)2月8日 - 福井県知事に任ぜられる。
- 1902年(明治35年)2月8日 - 1903年(明治36年)1月21日 - 宮城県知事に任ぜられる。
- 1903年(明治36年)6月29日 - 1907年(明治40年)1月11日 - 高知県知事に任ぜられる。
- 1907年(明治40年)1月11日 - 1912年(明治45年)3月28日 - 広島県知事に任ぜられる。
- 1912年(明治45年)3月28日 - 1912年(大正元年)12月30日 - 熊本県知事に任ぜられる。
- 1912年(大正元年)12月30日 - 1914年(大正3年)4月21日 - 東京府知事を任ぜられる。
- 1915年(大正4年)3月25日 - 第12回衆議院議員総選挙に熊本県郡部区から立候補し、当選。
- 1917年(大正6年)
- 4月20日 - 第13回衆議院議員総選挙に熊本県熊本市区から立候補し、落選。
- 12月26日 - 1918年(大正7年)2月7日 - 貴族院勅選議員となる。
- 1918年(大正7年)2月7日 - 死去
栄典
編集- 位階
- 勲章等
脚注
編集外部リンク
編集- 肖像 - 埼玉県ホームページ