娥 清(が せい、生年不詳 - 436年頃)は、中国北魏軍人本貫代郡。もとの名は拓跋娥清。

経歴

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若くして戦功を重ね、振威将軍に累進した。417年東晋劉裕朱超石を派遣して平原郡に侵攻させ、北魏軍を破った。朱超石は畔城まで来て退却した。娥清は長孫道生とともにこれを追撃し、黄河にいたって、その部将の楊豊を捕らえた。平城に帰還すると、給事黄門侍郎となった。明元帝の命を受けて、徒河の民を説得して平城に移住させた。422年、明元帝が南巡してに到着すると、娥清は中領軍将軍となり、宋兵将軍の周幾らとともに黄河を渡り、泰山高平金郷の諸郡を平定した。423年、湖陸に到着すると、高平郡の民が集結して北魏軍に反抗したので、娥清らは数千家を殺害し、1万人あまりを捕らえた。須昌侯の爵位を受けた。娥清は周幾らとともに枋頭に駐屯した。424年、枋頭から平城に帰還し、仮の征南将軍となり、東平公に進んだ。425年太武帝が北伐すると、娥清は平陽王長孫翰とともに東道をとって長川に出て柔然を討ち、大勝して帰還した[1]。宗正卿に転じた。427年統万城を落とし、奚斤とともに赫連昌を安定まで追って、赫連昌と対峙した。428年安頡が赫連昌を捕らえると、赫連昌の弟の赫連定が西に逃亡したため、奚斤はこれを追撃した。娥清は川に沿って進軍しようとしたが、奚斤に聞き入れられず、奚斤とともに赫連定に捕らえられてしまった。430年、太武帝が平涼を落とすと、帰国できた。後に并州に駐屯し、山胡の白龍を西河で討ち、白龍の父とその将帥を斬り、その城を落とした。436年、平東将軍となり、古弼らとともに北燕を討った。龍城を陥落させ、馮弘が東に逃亡すると、高荀子がこれを追撃しようとした。ところが古弼が酔って抜刀し、高荀子の追撃をとどめたため、馮弘の高句麗への逃亡を許してしまった。太武帝はこれを聞いて激怒し、古弼と娥清を檻車に入れて護送させ、ふたりを門番の兵に落とした。娥清は邸で死去した。

子の娥延は、員外散騎常侍となり、南平公の爵位を受けた。

伝記資料

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  • 魏書』巻三十 列伝第十八
  • 北史』巻二十五 列伝第十三

脚注

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  1. ^ 『魏書』娥清伝の記述による。『魏書』蠕蠕伝および『通鑑』では、太武帝とともに中道をとって栗園に出たことになっている。