天授(てんじゅ、천수)は、高麗で使用された元号918年 - 933年

概要

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王建は、太祖6年(923年)に後梁に使臣を送り、太祖8年、太祖9年、太祖12年、太祖15年、太祖17年、太祖18年、太祖19年にも使臣を派遣した[1]。太祖16年(933年)、後唐は王瓊と楊昭業などを高麗に派遣し、王建を冊封した。後唐から冊封されたことから、王建は「天授」という年号を放棄、後唐の年号を使用することで中国事大する[1]

西暦・干支との対照表

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天授 元年 2年 3年 4年 5年 6年 7年 8年 9年 10年
西暦 918年 919年 920年 921年 922年 923年 924年 925年 926年 927年
干支 戊寅 己卯 庚辰 辛巳 壬午 癸未 甲申 乙酉 丙戌 丁亥
天授 11年 12年 13年 14年 15年 16年
西暦 928年 929年 930年 931年 932年 933年
干支 戊子 己丑 庚寅 辛卯 壬辰 癸巳

できごと

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  • 元年(918年) - 高麗の建国とともに、年号を制定[2]
  • 16年(933年) - 後唐の正朔を受け、年号を廃止[3]

脚注

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  1. ^ a b 윤명철 (2014年3月31日). “해양세력 왕건과 고려의 건국”. 한국 해양사 
  2. ^ 『高麗史』巻1・世家第1 太祖元年(918年)「夏六月丙辰,即位于布政殿,国号高麗,改元天授」
  3. ^ 『高麗史』巻2・世家第2 太祖16年(933年)「又賜暦日,自是除天授年号,行後唐年号」

関連項目

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