天地正教
天地正教(てんちせいきょう)は、北海道帯広市に本部を置く仏教系[3][4]の宗教法人(ただし、文化庁の区分では諸教とされている[注 1])。
前身 |
天運教[2] 霊石愛好会[2] |
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後継 | 世界基督教統一神霊協会[2] |
設立 | 1988年1月14日 |
設立者 | 川瀬カヨ |
法人番号 | 2460105000104 |
法的地位 | 宗教法人 |
所在地 | 日本 北海道帯広市西十六条南5丁目34番21号[1] |
座標 | 北緯42度54分30秒 東経143度10分30秒 / 北緯42.90833度 東経143.17500度座標: 北緯42度54分30秒 東経143度10分30秒 / 北緯42.90833度 東経143.17500度 |
概要
編集川瀬カヨが1970年代に「世界基督教統一神霊協会」(現・世界平和統一家庭連合。旧名の通称:統一教会または統一協会、以下、統一教会と略称)の信仰を持ち、自ら率いていた「天運教」の組織をそのまま受け継いだもの。「天運教」は祈祷師の信奉者団体で、帯広市で霊能による占いや病気治療を行っていた[5]。1988年に「天地正教」と改称してからは、弥勒信仰を中心とする。この世に下生するとされている弥勒が統一教会の教祖、文鮮明であると教えていたとされる。宗教学者・櫻井義秀によれば、信者の大半は主婦層であり、信者を統一教会に導くダミー教団である[5][6][7]。「霊感商法」で販売されていた壺や多宝塔を「霊石」として扱っていた。1998年の内紛により、 1999年に法人としては正式に解散していないが“和合”ということで統一教会に事実的には吸収された形になった。
- 聖火の郷 報恩殿 北海道清水町御影地区にある教団施設。
沿革
編集1956年11月12日、川瀬カヨが「汝、天運教の教主たれ」との啓示を受けたという。天地正教ではこれをもって創立とする。しかし、周囲の理解を得られず、精神科病院に入院させられる。退院後、教団で「百日日参」と呼ぶ修行を行い、そのころから徐々に信者が集まり始める。
1957年3月4日 「おさしず」と称する啓示を受ける。宗教法人認証以前においてはこの日を立教の日としていた。
1963年、信者会として「冨士会」が設立され、教団としての体裁を整える。当時は八大龍神・馬頭観音・弘法大師等を本尊とし、先祖供養を中心とした教えを説いていた。
1973年[注 2][8]、信者の一人が「幸福の壺」をもたらしたことを通し、統一教会の教えを受け入れる[注 3]。
1982年10月14日 川瀬カヨが数人の信者と共に「統一教会」の6000組合同結婚式に参加。川瀬は「独身祝福」を受ける。
1987年10月1日、役員会において宗教法人認可の申請を出すことが決定され、同月26日、北海道知事より認証された[5]。また、川瀬カヨが初代教主についた[5]。この時、本尊を弥勒慈尊(弥勒菩薩)に改める。翌1988年1月14日[要出典]、法人の名称を「天地正教」と改めた[5]。
同年3月3日[要出典]、統一教会の霊感商法関連団体「霊石愛好会」が天地正教に移行することを発表する[5]。この「霊石愛好会」という団体は、霊感商法が社会問題となったため、その種の商品を扱っていた販売業者が「自粛宣言」を出した後に結成された任意団体である[5]。全国で「霊石に感謝する集い」という集会を開き、内部の道場で壺や多宝塔などを頒布していた[5]。販売すると霊感商法といわれるので、売るのではなく団体へ献金するという名目が使われていた[9]。
これにより、天地正教は実質的に統一教会系の幹部に牛耳られることとなり、旧天運教関係者はお飾りの立場におかれた。しかし、統一教会の幹部による霊感商法的運営によってさまざまな問題が噴出し、次第に川瀬カヨを中心とする旧・天運教系幹部が主導権を握るようになった。
1994年2月4日[要出典] 川瀬カヨが83歳で亡くなり、三女・新谷静江が二代教主となる[9]。なお、三女は統一教会の信者ではない[9]。
1995年2月3日、本山において文鮮明夫妻の写真を祭壇に掲げる儀式を行い、公式に弥勒慈尊が文鮮明夫妻であることを表明した。それまで、内々に文夫妻を弥勒として教えていたが、教団として文夫妻の写真を拝することはなかった(ただし、各地の道場が非公式に文夫妻の写真を拝することは少なからず行われていた)。
またこの年、北海道清水町における本山の宿泊施設建設計画が地元の激しい反対を受けた。当時、天地正教の青年が作務衣を着ての訪問托鉢を行っていたが、その姿が折から問題になっていたオウム真理教を彷彿とさせ、地域住民の警戒感を招いたためである。
1997年10月1日 信者一行が北朝鮮を訪問。「金日成主席永生祈願祭」、「朝日歴史総懺悔式」(人民文化宮殿)に参加[10]。
1998年5月、新谷静江が教主の座を追われる[7][9][注 4]。新谷教主や天地正教の一部の幹部・信徒は統一教会による支配を排除しようとした[9]。彼らは韓国の統一教会幹部らの献金の扱いに非常に不信を持ち、文鮮明教祖に韓国の「世界日報」の財務、送金した献金の監査請求をし、調査を求める12人の署名をした嘆願書を出したが、受け入れられなかった。これに対して韓国及び日本の統一教会幹部は、天地正教の完全支配を目論み、教団内の旧・天運教系幹部主導の体制に不満を持つ統一教会系幹部を扇動し、教主の追い落としを図った。
文鮮明は、777双[注 5]で、アメリカの統一神学校を出て、当時役職に就いていなかった[要出典]松波孝幸(後に原理研究会会長)を天地正教の会長にさせ、教主制度を廃止[要出典][9]。 12人の嘆願書を出した人たちは、皆、左遷された。しかし、この処置は信者の多くに不信感を抱かせ、信者数は激減した。
その結果、天地正教は教団存続を断念。1999年3月[要出典]天地正教は、松波会長の申し出(和合宣言文)という形をとって、事実上、統一教会によって、吸収合併された[11]。ただし、法人としては現在も存続している。統一教会・天地正教側は法人の解散を望んで信者の署名活動まで行ったが、文化庁が乗っ取りによる教団の吸収合併という前例ができることを嫌ったためといわれている。
統一教会との関係
編集- 裁判の原告らの主張:統一教会の方針に従って霊石(壺や多宝塔)を授かって喜んでいる人達を装った被告の婦人信者を中心に発足した「霊石愛好会」の組織をそのまま天地正教に移行させたものであり、統一教会と霊石愛好会及び天地正教とは一体のものであると指摘している[12][7]。
- 統一教会に吸収され、事実上、天地正教としての活動を停止した後、問題視した地元の町議から反対運動を起こされている[11]。
関連項目
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 天地正教を仏教系と認識していたのは統一教会及び統一教会を批判するグループの人たちである。一部の統一教会系幹部を除き、天地正教内部において自らを仏教系とする認識はほとんどなかった。
- ^ 2001年6月29日 の札幌地裁での証人(甲 三八五、乙ハ二二)によれば、「川瀬カヨは、昭和47年(1972年)ころから文鮮明を救世主、霊界の支配者として信奉するようになった。」とされている。
- ^ なお、櫻井義秀の著作『統一教会』(中公新書) では、カヨの子供たちが統一教会に入信し統一教会から購入した壺を持ってくるようになったため、次第に統一教会を信奉するようになり、天運教の信者にも壺の購入を勧めるようになった、と書かれている。[5]
- ^ 新谷は、教主を追われた後、海命寺の住職に就き、新谷蓮花を名乗った[11]。1999年に、一部の信徒と共に「富士の会」という宗教団体を立ち上げたが揮わず、2014年に亡くなった[11]。
- ^ 統一教会の行う「合同結婚式」はその結婚式に参加したカップル数により、「○○組合同結婚式」などと呼ばれ、信者は自分が参加した式の数字によって○○組、または○○双などと呼ばれる。
出典
編集- ^ a b “天地正教の情報”. 法人番号公表サイト. 国税庁 (2020年4月9日). 2022年10月11日閲覧。
- ^ a b c “旧統一教会は十勝と歴史的つながり 狙いは高齢者、巧みな手口 櫻井義秀北大教授に聞く”. 十勝毎日新聞. 十勝毎日新聞社 (2022年8月18日). 2022年10月11日閲覧。
- ^ 「真の家庭運動」の正体は ?(『しんぶん赤旗』 2006年6月28日)
- ^ 「天地正教の正体」(有田芳生『朝日ジャーナル』 1988年4月15日)
- ^ a b c d e f g h i 櫻井義秀『統一教会 性・カネ・恨から実像にせまる』中央公論新社〈中公新書〉、2023年3月25日、161頁。ISBN 978-4-12-102746-7。
- ^ 李進龜、櫻井義秀「第8章 統一教会の日本宣教-日韓比較の視座-」『越境する日韓宗教文化 韓国の日系新宗教 日本の韓流キリスト教』北海道大学出版会、2011年12月25日、198頁。ISBN 978-4-8329-6757-1。
- ^ a b c 「櫻井義秀北大助教授に聞く、統一教会のダミー教団「天地正教」の変遷」(BNN) Archived 2007年9月28日, at the Wayback Machine.
- ^ 2001年6月29日 札幌地裁 判決抜すい(『霊感商法の実態』)[リンク切れ]
- ^ a b c d e f 櫻井『統一教会』p.162.
- ^ 新潟の裁判勝利集会へ 2007年6月24日(有田芳生公式ブログ『酔醒漫録』)
- ^ a b c d 櫻井『統一教会』p.163.
- ^ a b 2 被告の信者らによる前記献金勧誘行為と被告との関係の有無(福岡地方裁判所 1994年5月27日[リンク切れ])