大草松平家
大草松平家(おおくさまつだいらけ)は、三河国額田郡大草郷(現在の愛知県額田郡幸田町)出身の松平氏。岩津の松平信光五男・松平光重を祖とする。十四松平・十八松平の一つとされる。初めは岡崎松平家と称した。
大草松平家 | |
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本姓 | 称・清和源氏 |
家祖 | 松平光重 |
種別 | 武家 |
出身地 | 三河国額田郡大草郷 |
主な根拠地 | 三河国額田郡大草郷 |
著名な人物 |
松平親貞 松平信貞 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
3代・松平昌安(信貞・弾正左衛門)の時に近隣の松平清康に岡崎城を乗っ取られ、やむなく大草の地に退去する[1]。4代・松平昌久は三河一向一揆で一揆側に付いた。このため大草松平家は没落するも、7代・松平康安の時、旗本(6千石)となった。しかし9代・松平正永の代で無嗣のため絶家した。
出自・沿革
編集文明年間(1469-1487年)、岡崎城主・西郷頼嗣は松平信光と争って敗れたので、岡崎城を信光に譲り自身は自領の大草郷に隠退した。この時、信光は五男・松平光重(紀伊守・号榮金)に頼嗣の娘を娶らせ岡崎城主として光重を岡崎に分出させた。その後、光重の嫡子・松平親貞(左馬允)は無嗣のまま早世し、西郷頼嗣の実子とされる信貞が養子入りして親貞の跡を継いだ。信貞は一説に実父の西郷姓に復して、西郷弾正左衛門と称したとされるが、同族である安祥松平家の松平清康に属城である山中城を略取されると息女を室として婚姻関係を結ばされたうえで額田郡大草郷に退去させられた。以後子孫は同地の大草城に移住したので大草松平家と呼ばれた。
なお、近年では大草松平家は早い時期から松平宗家とされる岩津松平家から自立した行動を取っており、大給松平家と共に系譜上の位置づけや成立の経緯に関して再検討されるべき存在と考えられている[2]。また、歴史学者の村岡幹生は松平清康が安祥松平家の嫡流でありながら、現存の同時代史料ではむしろ独立勢力のような扱いをされていることに着目し、岡崎松平家側が安祥松平家に対抗するために安祥家中でも非主流の立場になっていた清康を後継者(婿養子)に迎えた可能性を指摘している[3]。
信貞の子・昌久(七郎)はこの因縁から三河一向一揆に加担したが、一揆軍が敗北したためさらに大草を没収され、これより一族は浪々の身となるが6代・松平正親の嫡男・康安が家康長男の松平信康の旗本として復帰したとされる[4]。
松平康安(石見守・善兵衛)は家康の嫡子松平信康に、信康切腹後は家康に仕えた。鉄砲射撃を得意とし、足軽大将として対武田氏・北条氏戦で活躍し、最初期の大番頭になる。家康死後、将軍・徳川秀忠より6000石を給与された。8代・松平正朝は家康・秀忠に仕え、後に駿河大納言・徳川忠長付きとなったが忠長の改易・除封に連座して所領を収公された。後に水戸徳川家に仕官して家老になったが、子の正永は無嗣で絶家した。
歴代
編集略系図
編集『寛政重修諸家譜』の記述に従った系図。
凡例 1) 実線は実子、点線は養子 2) 数字は家督継承順。
松平信光 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
守家 (竹谷松平家) | 親忠 (安祥松平家) | 与副 (形原松平家) | 光重1 | 忠景 (五井松平家) | 光親 (能見松平家) | 親則 (長沢松平家) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
親貞2 | 昌安3[5] | 貞光 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昌久4 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三光5 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
正親6 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
康安7 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
正朝8 | 重成 | 成次 | 康信 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
正永9 | 正村 | 重之 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
編集- ^ この時点では、西郷氏を称したとされる。
- ^ 柴裕之 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第十巻 徳川家康』(戎光祥出版、2021年) ISBN 978-4-86403-407-4 柴裕之「総論 戦国・織豊期の徳川家康の動向と研究」P11.
- ^ 村岡幹生「松平氏〈有徳人〉の系譜と徳川〈正史〉のあいだ」平野明夫 編『家康研究の最前線』(洋泉社、2016年)。後、村岡『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年)所収。2023年、P33.
- ^ なお、正親は永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの前日、尾張国(一説に同国丸根砦の戦い)に今川方として戦死したとされる。
- ^ 西郷頼嗣の子で光重養子という説がある