大番屋
大番屋(おおばんや)は、江戸の町中に設置された被疑者を拘留するための施設。調番屋(しらべばんや)とも。
江戸の町々にあった自身番屋のうち留置場の設備がある大きい建物で、設置されたのはおそらく天保期から化政期ころで、当初は2、3ヵ所、幕末までに6から8ヵ所あったとされる[1]。
大番屋は容疑者の取り調べを担当する吟味方与力が出張りやすいよう、町奉行所近くにあった。
茅場町や佐久間町、八丁堀、材木町3・4丁目にあった通称「三四の番屋[2]」などが知られているが、他の大番屋がどこにあったかは記録は残されていない。
設置された目的
編集大番屋が設置されたのは、伝馬町牢屋敷の頻発する火災とその修復、それに伴う囚人の脱獄や過剰拘禁などの問題の解決のためというのが1つ[1]。
もう1つは、幕府が寛延3年(1750年)に6ヵ月以上在牢している者があれば、毎月1日に町奉行所に報告するよう牢屋奉行・石出帯刀に命じ[3]、宝暦11年(1761年)4月[4]と嘉永4年(1851年)2月にも同様の令を出して、牢屋敷の在牢者削減を促していたことから、審理のスピード化と在牢期間の短縮が目的だったとされる[1]。
江戸以外の大番屋
編集留置場としての機能
編集江戸の町において、被疑者の取り調べは、最初は町奉行所の定町廻りや臨時廻りといった、三廻の同心によって行われた。呼び出した場合はその者の住む町の自身番で、不審者として拘束した場合は最寄りの自身番へ連行し、そこで一応の取り調べをし、町内預けにする・放免する・牢屋送りにする[6]といった対処を決める。本格的な取り調べが必要と判断された時に、被疑者を送致する施設が、大番屋である。大番屋を使用するのは、被疑者の関わり合いのある者や参考人を呼んだりするには自身番屋では狭いためという事情もあった。大番屋へは、同心付きの小者が縄をとり、被疑者が住む町の町役人を付き添わせて連行した。
大番屋で取り調べて、罪科に間違いないとなれば牢屋敷送りとなるが、そのためには「入牢証文」という牢屋敷に収監するための書類を発行する必要がある。この書類の発行には時間がかかるため、それまで被疑者は大番屋に拘留される。証文が作成されてから被疑者は、町役人付き添いで小者に縄をとられて、大番屋から牢屋敷に送り込まれた。
大番屋の図
編集大番屋の構造・設備の詳細を記した文献はほとんど無い。
明治26年(1893年)9月に刊行された『徳川幕府刑罰図譜』の24葉目に「大番屋留置場の図」 (a great watch hause、(明治大学博物館)) があるが、これは想像図であり、重松一義はこれを大番屋を伝える絵画として認めることはできないとしている[7]。
一方、河鍋暁斎が描いた「江戸の大番屋(明治三年十月暁斎氏東京府の獄屋に繋かるゝの図)」は、実際に大番屋・本牢に100日余入牢した上、50回の敲を受けた後に描いたもので[8]、「学術的に貴重で、価値が高い刑事史料である」と評価している[7]。
暁斎の「大番屋の図」には、牢屋敷にも無いような中2階の構造があり、獄舎右側の帳場風の台上が番屋下役の詰所(監視所兼指図所)である[7]。上段窓際は揚屋扱いの者(一定の身分ある者を収監する牢)・軽罪の者・老人・婦女・子供が繋がれ、下段の格子内には重罪の者・本牢(小伝馬町牢)送りを待つ者・無宿無頼者を座らせる場となっている[7]。下段は各面が小雑居(必要に応じて独居とする)の形態となっていて、3尺四方のスペースに4人が詰め込まれている[8]様子が描かれる[7]。
脚注
編集参考文献
編集- 『考証 「江戸町奉行」の世界』 稲垣史生 新人物往来社 ISBN 4-404-02486-X
- 『三田村鳶魚 江戸武家事典』 稲垣史生 青蛙房 ISBN 978-4-7905-0500-6
- 『大江戸暗黒街 八百八町の犯罪と刑罰』 重松一義著 柏書房 ISBN 4-7601-2808-5
- 『【図説】世界の監獄史』 重松一義著 柏書房 ISBN 4-7601-2044-0
- 『捕物の話 鳶魚江戸文庫1』 三田村鳶魚著 中公文庫 ISBN 4-12-202699-7
- 『江戸の町奉行』 南和男著 吉川弘文館 ISBN 4-642-05593-2
- 『なるほど! 大江戸事典』 山本博文著 集英社 ISBN 978-4-08-781465-1
- 『江戸町奉行』横倉辰次著 雄山閣出版 ISBN 4-639-01805-3
- 『日本法制史』 浅古弘・伊藤孝夫・植田信廣・神保文夫編 青林書院 ISBN 978-4-417-01517-8
- 『法社会史 新体系日本史2』 水林彪・大津透・新田一郎・大藤修編 山川出版社 ISBN 4-634-53020-1