大岡忠敬

日本の江戸時代後期~明治時代前期の大名・知藩事・子爵。三河西大平藩5代藩主大岡忠移五男で、西大平藩7代藩主(大岡忠世家9代当主)。従五位下越前守。大番頭・大坂加番等を歴任

大岡 忠敬(おおおか ただたか)は、三河国西大平藩第7代(最後)の藩主。大岡忠世家9代当主。

 
大岡忠敬
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政11年9月26日[1]1828年11月3日
死没 明治20年(1887年6月11日[2]
改名 鉄吉(幼名)、愛敬、忠敬
墓所 浄見寺
官位 従五位下越前守
幕府 江戸幕府 日光祭礼奉行、大坂加番、大番頭
三河国西大平藩主、西大平藩知藩事
氏族 大岡氏
父母 父:大岡忠移、養父:大岡忠愛
兄弟 忠愛忠敬
正室:安藤広勤の伯母[1]
辰五郎(早世)、忠明、福之丞(早世)、
太平(早世)
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経歴

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第5代藩主大岡忠移の五男として生まれる。先代の実兄・第6代藩主忠愛に子がいないためにその養子となり、安政4年(1857年)に養父忠愛の隠居により家督を相続した。安政6年(1859年)に日光祭礼奉行、万延元年(1860年)に大坂加番を歴任し、文久2年(1862年)に大番頭に就任する。慶応3年(1867年)に同職を辞す。

幕末には当初は佐幕派に属したが、鳥羽・伏見の戦い以後は小藩故に多勢に無勢であり、新政府軍に帰順して挙母藩田原藩とともに輸送の任にあたった。

明治2年(1869年)、版籍奉還により西大平藩知事に就任する。明治4年(1871年)の廃藩置県により、同職を罷免された。明治17年(1884年)7月8日、華族令により子爵を叙爵した[3]

明治20年(1887年)に死去した。享年60。

家族

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父母

子女

脚注

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  1. ^ a b 『華族家系大成』
  2. ^ 『現代華族譜要』、『華族家系大成』
  3. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
西大平大岡家初代
1884年 - 1887年
次代
大岡忠明
当主
先代
大岡忠愛
大岡宗家
第12代:1857年 - 1887年
次代
大岡忠明