大久保 忠成(おおくぼ ただしげ)は、江戸時代後期の大名下野国烏山藩5代藩主。烏山藩大久保家6代。官位従五位下佐渡守

 
大久保忠成
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 明和3年5月24日1766年6月30日
死没 嘉永4年1月21日1851年2月21日
墓所 東京都世田谷区太子堂教学院
官位 従五位下佐渡守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
下野烏山藩
氏族 深溝松平家大久保氏
父母 父:松平忠恕、養父:大久保忠喜
兄弟 忠邦忠成花房職喬秋元保朝松平忠馮松平忠堯松平忠良松平忠豫梅渓通同室、土井利謙継々室、松平信古正室、内田正肥室、京極高賢正室、松平忠告
養兄弟:大久保忠成正室恵津子成瀬正壽正室大久保親知正室
正室:大久保忠喜の娘
忠保忠声、霊峰院
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略歴

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宇都宮藩主・島原藩松平忠恕の三男として誕生。

実兄で烏山藩主大久保忠喜の養子となっていた忠邦が早世したため、代わって天明7年(1787年)に養子となる。文化2年(1805年)、病のため隠居した忠喜の家督を継いだ。文政10年(1827年)に隠居して家督を長男の忠保に譲り、嘉永4年(1851年)に84歳で没した。墓所は東京都世田谷区太子堂教学院

系譜

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父母

正室

子女

参考文献

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  • 『烏山町史』