墨家(ぼくか、ぼっか)は、中国戦国時代に活躍した、墨子を始祖とする思想家集団であり、諸子百家の一つ。

平和主義博愛主義を説いた。また、その平和主義に基づいて、武装集団として各地の守城戦に協力した。儒家に匹敵する最大勢力となって隆盛したが、によって戦国時代が終わってからは消滅した。

概要

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墨家集団は鉅子中国語版(きょし)と尊称された指導者の下、強固な結束で結ばれていた。

結束の証左として、以下のような逸話が『呂氏春秋』上徳篇に伝わっている。あるとき、墨家がにおいて守備していた城が陥落した。その責任をとって、第三代鉅子の孟勝中国語版以下墨者400人が城中で集団自決したという。そのことを第四代鉅子となる田襄子中国語版に報告しに行った使者の墨者二人も、楚に戻って後追い自殺したという。以上のような逸話や、『墨子』明鬼編の鬼神を崇める内容から、墨家集団は宗教教団的色彩をも帯びていたであろうとも推定される。

墨家はその後、秦に拠点を移した後(秦墨)[1]、複数派閥に分裂し(墨家三派・別墨)、最終的に消滅する。末期の鉅子の詳細は不明である。

歴代鉅子

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  1. 墨翟…初代
  2. 禽滑釐中国語版…二代目(読みは「きんこつり」[2]
  3. 孟勝中国語版…三代目
  4. 田襄子中国語版…四代目(田斉田襄子とは別人)

以降不詳。『呂氏春秋』去私篇には、腹䵍中国語版の名前もある。

墨家三派・別墨

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秦による中国統一前後には、墨家は内部で派閥対立を起こしており、とりわけ「相里氏」「相夫氏」「鄧陵氏中国語版」の三派に分裂していた。

韓非子』顕学篇によれば、当時の「顕学」(勢力が顕著だった学派)は、「儒」(儒家)と「墨」(墨家)の二学派であり、前者は八つの派閥(儒家八派)に、墨家は三つの派閥(相里氏、相夫氏、鄧陵氏)に分かれていたという[3]

荘子』天下篇によれば、相里氏と鄧陵氏にあたる二派を含む、複数の学派[4]があり、いずれの学派も同じ『墨経』を共有しながらも異なる解釈をもち、相互に「別墨」と呼んで非難しあったという。ここでいう『墨経』と現存の『墨子』との関係は不明である。ただし、天下篇の同じ章に「堅白同異」というフレーズが見えることや、「経」という言葉から、墨弁と結び付ける見解もある[5]

主な思想

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墨家の書物

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漢書芸文志には、墨家の書物として『墨子』のほか『尹佚中国語版』『田俅子中国語版』『我子』『随巣子wikidata』『胡非子中国語版』が載っているが、『墨子』以外現存しない[1]。『纏子wikidata』は『漢書』芸文志に載っていないが、佚文が伝わる[6]

隋書経籍志以降は、次第に数が減り、の『千頃堂書目中国語版』以降、墨家は名家縦横家とともに雑家にまとめられた[7]

日本国見在書目録』には、『随巣子』『胡非子』『纏子』が載っている[8]。『日本国見在書目録』に『墨子』は載っていないが、『本朝続文粋』所収の藤原敦光の文に『墨子』の引用が見られる[8]

脚注

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  1. ^ a b 池田知久・日本大百科全書(ニッポニカ)『墨家』 - コトバンク
  2. ^ 列子』湯問篇の殷敬順釈文に「音骨狸」とあるのによる
  3. ^ 『韓非子』顕学篇「世之顯學、儒・也。儒之所至、孔丘也。墨之所至、墨翟也。自孔子之死也、有子張之儒、有子思之儒、有顏氏之儒、有孟氏之儒、有漆雕氏之儒、有仲良氏之儒、有孫氏之儒、有樂正氏之儒。自墨子之死也有相里氏之墨有相夫氏之墨有鄧陵氏之墨。故孔・墨之後、儒分為八、墨離為三、取捨相反、不同。而皆自謂真孔・墨。孔・墨不可復生、將誰使定世之學乎。」
  4. ^ 『荘子』天下篇「相里勤之弟子、五侯之徒、南方之墨者、苦獲已齒鄧陵子之屬」 ここの読み方次第で学派の数に諸解釈ある。詳細は 池田知久『荘子 全訳注 下』講談社〈講談社学術文庫〉、2014年。ISBN 978-4062922388 の注釈参照。
  5. ^ Fraser, Chris (2020). “Mohist Canons”. In Zalta, Edward N.. The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2020 ed.). Metaphysics Research Lab, Stanford University. https://plato.stanford.edu/archives/win2020/entries/mohist-canons/ 
  6. ^   中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:缠子
  7. ^ 金文京中国目録学史上における子部の意義 : 六朝期目録の再検討」『斯道文庫論集』第33号、慶應義塾大学附属研究所斯道文庫、1998年https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00106199-00000033-0171 202頁。
  8. ^ a b 山邊進「我が国近代以後に於ける墨学研究批判」『二松學舍大學論集』第42号、二松学舎大学文学部、1999年。 NAID 110006177867https://nishogakusha.repo.nii.ac.jp/records/603 110f頁。

参考文献

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関連項目

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