向坂兌
向坂 兌(さぎさか なおし、嘉永6年4月27日(1853年6月3日) - 明治14年(1881年)6月14日)は明治時代のイギリス留学生。佐野藩貢進生として大学南校に学び、開成学校より文部省留学生に抜擢された。ロンドンミドル・テンプルに学んで法廷弁護士となり、西欧を歴遊して研鑽を積んだが、肺病のため帰国後間もなく死去した。
さぎさか なおし 向坂 兌 | |
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法廷弁護士合格記念 | |
生誕 |
五十嵐旙之助 嘉永6年4月27日(1853年6月3日) |
死没 | 明治14年(1881年)6月14日 |
死因 | 肺結核 |
墓地 | 原宿村龍巌寺 |
記念碑 | 向阪兌君之碑 |
国籍 | 日本 |
別名 | 号:弘斎、松嶼 |
出身校 | 開成学校、ミドル・テンプル法曹院 |
職業 | 佐野藩貢進生、文部省留学生、ミドル・テンプル法廷弁護士 |
親 | 実父:五十嵐道歖、養父:林成昌、向坂弘孝 |
親戚 | 祖父:五十嵐于拙、義兄:勝沼精之允、孫:勝沼精蔵 |
経歴
編集嘉永6年(1853年)4月27日、出羽国上山藩士五十嵐道歖の三男として生まれた[1]。館林藩士林成昌養子となった後、慶應2年(1866年)3月19日下野国佐野藩士向坂弘孝養子となり、藩校観光館に学んだ[1]。
明治3年(1870年)冬東京に上り、佐野藩貢進生として大学南校英学部に入学し、明治7年(1874年)9月開成学校法学本科に進んだ[1]。
明治9年(1876年)6月、第二回文部省留学生に抜擢され、サンフランシスコ経由でロンドンに留学し、岡村輝彦、穂積陳重と共にミドル・テンプル法曹院に入学した[1]。明治12年(1879年)6月9日穂積と共に卒業試験に合格し、6月25日法廷弁護士となったが[1]、これは日本人として星亨、長岡護美に次いで3番目だった[2]。オックスフォード巡回区で巡回裁判所裁判官を勤め、スタッフォードでの裁判では弁護士の業務も要請されたが、視察目的として断った[1]。
ブリュッセル自由大学に移り、ドイツで村田保と会い、イタリアで万国刑法会議に出席し、デンマーク、スウェーデンを歴遊した[1]。その後、パリに滞在して裁判所、刑務所を視察し、明治14年(1881年)5月帰国したが、肺病のため、6月14日に死去した[1]。墓所は原宿村龍巌寺、法名は十洲松嶼居士[1]。
著作
編集- 「刑罰論」『講学余談』第2号、明治9年4月
親族
編集実父は羽前国上山藩士五十嵐柔兵衛道歖、祖父は上山藩儒五十嵐于拙[1]。
養父向坂善左衛門弘孝は佐野藩物頭、後郡奉行として三国峠で幕府軍と戦い、明治17年(1884年)6月8日没[1]。養母恵(えい)は館林藩士根岸弥源治娘で、明治38年(1905年)9月10日館林町で没[1]。
姉升は兌と同時に林成昌養女となった後、安政4年(1857年)2月30日館林藩下家老勝沼精之允信紀に嫁ぐが、精之允は幕府方に就いて自害し、帰郷して上山小学校女子部主幹となった[1]。孫に医学者勝沼精蔵がいる[1]。
兌の死後、向坂家は叔父誠の次男武が継いだ[1]。
脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 塩澤全司、高橋昭「勝沼精藏先生の嘆息--杉浦重剛撰文「向阪兌之墓」」『山梨医科大学紀要』第17巻、山梨医科大学、2000年、10-19頁、doi:10.34429/00000691、ISSN 09105069、NAID 110000495074。
- ^ 七戸克彦「現行民法典を創った人びと(14)査定委員7・8 : 岡村輝彦・奥田義人、外伝9・10 : 五大法律学校(その2)中央大学・末弘巌石のことども」『法学セミナー』第55巻第6号、日本評論社、2010年6月、56-59頁、ISSN 04393295、NAID 120002646783。