吉川広家

日本の戦国〜江戸時代の武将

吉川 広家(きっかわ ひろいえ)は、戦国時代後期から江戸時代前期にかけての武将周防国岩国領初代領主[注釈 1]毛利氏一門関ヶ原の戦いにて毛利氏存続のため、徳川方と内通したことで知られる。

 
吉川 広家
東京大学史料編纂所所蔵
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄4年11月1日1561年12月7日
死没 寛永2年9月21日1625年10月22日[1]
改名 才寿丸(幼名)→経信、経言(つねのぶ)→広家
別名 次郎五郎、又次郎、蔵人頭(通称
戒名 全光院殿前拾随補四品 中岩如兼大居士
墓所 山口県岩国市横山洞泉寺
京都市北区大徳寺塔頭龍光院
官位 従四位下民部少輔侍従
幕府 江戸幕府
主君 毛利隆元輝元
周防岩国領
氏族 藤原南家工藤流吉川氏
父母 父:吉川元春、母:新庄局
兄弟 元長毛利元氏広家松寿丸
益田元祥正室、雪岩秀梅
容光院宇喜多直家娘)
若林藤兵衛娘、品川信重娘、有福家経
才太郎広正、露白、毛利就頼
今子(益田就宣正室)
養子:女(天野元嘉正室)
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生涯

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生い立ち

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永禄4年(1561年)11月1日、吉川元春新庄局の三男として誕生。

元亀元年(1570年)、父と共に尼子勝久の討伐戦で初陣を飾った。

幼少時は「うつけ」で父を嘆かせたという逸話があり、杯を受ける際の礼儀作法がなっていないことなどを注意された書状が残っている。また、当初相続していた吉川氏一族の宮庄氏[注釈 2]の所領が少ないことを理由として、天正8年(1580年)から天正10年(1582年)にかけて石見小笠原氏側からの養子縁組要請に乗って小笠原長旌の養子になろうとしたが、主君・毛利輝元の猛反対を受けて破談となっている。

天正9年1月14日1581年2月17日)、兄の元長から新たに仮名を与えられ、仮名を「次郎五郎」から「又次郎」と改める。

天正11年(1583年)10月、織田信長の死後に天下人となった羽柴秀吉(豊臣秀吉)の元へ、叔父・小早川元総小早川隆景の養子)と共に森重政高政兄弟との交換条件として人質として差し出された。当初、元春は隠居後の相手として広家を近くに置きたかったが、毛利氏の安泰のためにと人質として大坂に向かわせた。

同年10月3日(1583年11月17日)、大坂城において秀吉と謁見。小早川元総が秀吉に寵愛され豊臣家の大名として取立てられたのに対して、広家はすぐに大坂から毛利氏に帰されており、同年11月には安芸へ帰国している。帰国した広家は、上洛の労をねぎらう輝元より隠岐国を与えられた。ただし、この措置は広家の石見小笠原氏入嗣問題の背景に、広家が自己の待遇に不満を抱いていることを輝元も認識していた上の対応策という側面もあった[6]

吉川氏当主

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天正14年(1586年)11月に九州平定従軍中の(身分上は隠居の)父・元春が、次いで翌天正15年(1587年)6月に同じく従軍中で吉川氏当主である長兄の元長が相次いで死去したため、吉川氏の家督を相続し居城日野山城などの所領も継承する。さらに同年9月2日に毛利輝元から、毛利氏の祖先・大江広元から「広」の一字書出を与えられ、「経言」から「広家」と改名した。また、同年に秀吉の命で肥後国人一揆鎮圧のため出陣している。

秀吉からも元春・元長死後の毛利氏を支えるその手腕を高く評価され、天正16年(1588年7月25日豊臣姓羽柴の名字を下賜され、豊臣広家として従五位下に叙され、侍従に任官[7]

同年8月2日には、従四位下に昇叙し、侍従如元。

天正16年(1588年)10月、宇喜多直家の娘(宇喜多秀家の姉)で秀吉の養女となった容光院を正妻に迎え、形式上は秀吉の娘婿となった。しかし、僅か2年後の天正19年(1591年)春に容光院は病死し、以後、広家は正妻を迎えず側室を置くのみにとどめ、容光院の菩提を弔った。なお、人質として出された広家の娘は一度も秀吉に御目見えを許されていない。

天正19年(1591年)に秀吉の命により、末次元康の居城であった月山富田城に入るよう命じられ、出雲3郡・伯耆3郡・安芸1郡及び隠岐一国に及ぶ14万石を支配することとなった。この頃、山陰の政治・経済支配の拠点として近世城郭米子城の築城に着手している。しかし、後述の文禄・慶長の役により中断され、完成を待たずして関ヶ原の戦い後に改易となっている。

文禄・慶長の役にも出陣し、しばしば毛利氏の別働隊を指揮し、碧蹄館の戦いなども参戦し功を挙げて、秀吉から日本槍柱七本の1人と賞讃された。第一次蔚山城の戦いでは籠城する加藤清正の救援に赴いて蔚山倭城を包囲した明将・楊鎬率いる朝鮮軍を撃退する功を立てた、この戦に広家が真っ先に進み出て明軍に向かって突撃し、続いて総勢が一度に突撃した、そして明軍の一隊の逃走先に進み退路を寸断すると、その方向へ明兵は逃げられなくなり、別方向に逃げた。この戦の奮戦ぶりも立花宗茂と共に清正からの賞讃も得た[8]

慶長2年(1597年)に叔父の小早川隆景が亡くなると、当主の毛利輝元から毛利秀元と共に毛利氏を支えるよう要請されている。ところが、隆景の死に伴って返上される予定となっていた三原5万石など毛利本家から与えられていた所領の扱いや、輝元の嫡男・秀就に後継者を譲る引き換えに独立した大名として遇されることになった秀元への所領配分が問題になった。黒田孝高に代わって豊臣政権の取次になった石田三成は秀元に広家の所領を与え、広家には隆景が毛利本家に持っていた所領を継がせる案を出した。これに所領を奪われる広家だけではなく、長門国を望んでいた秀元、秀元を出雲国に移すことは賛同するものの広家には替地として備中国を与えることを考えていた輝元は、それぞれの思惑で反発した。

豊臣秀吉が没した直後の慶長4年(1599年)1月に豊臣政権は広家へ与える替地を先送りしたまま、秀元には広家の所領14万石を与えることだけが決定されたが、この案を推進した石田三成が豊臣七将の襲撃で失脚すると、6月になって徳川家康によって見直しが図られて、秀元には長門国が与えられ、広家の所領は変更なしとされた。この騒動は秀吉死後の毛利氏に少なからぬ混乱をもたらして輝元・秀元・広家の間の足並みの乱れを露呈させただけでなく、広家の三成への反発と家康への接近を招いたとする見方もある[9][10]

関ヶ原の戦い

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慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、毛利輝元が大阪城の三奉行、安国寺恵瓊、石田三成らの提案に同意して西軍の総大将に就任した。外交に通じた恵瓊は広家を嫌っており[注釈 3]、主家に背いても東軍加担を主張する広家と、一たび事を起こした以上、西軍総大将の立場を貫くべきとする恵瓊は大坂城で激論を闘わせたとされる。しかし、あくまで家康率いる東軍の勝利を確信していた広家は、同じく毛利重臣である福原広俊と謀議を練り、恵瓊や輝元には内密にしたうえ独断で黒田長政を通じて家康に内通し、毛利領の安堵という密約を取り付ける[注釈 4]。一方で、安濃津城攻略戦では主力として奮戦し、長政が一時顔色を失う局面もあった。

さらに9月14日、関ヶ原決戦前日にも広家は福原・粟屋就光の両重臣の身内2人を人質として送り、合わせて毛利の戦闘不参加を誓う書状を長政に送っている。同日付の本多忠勝井伊直政が広家・福原広俊に宛てた連署起請文では、

  • 輝元に対して、家康は疎かにする気持ちがないこと。
  • 広家・広俊も家康に忠節を尽くしているので、同様に疎かにする気持ちのないこと。
  • 輝元が家康に忠節を誓うのであれば、家康の判物を送ること。また、輝元の分国は相違なく安堵すること。

という内容が記されている[12]。また、同日付の福島正則・黒田長政の連署起請文では、先述の忠勝・直政の起請文に偽りがないことを重ねて証明している[13]

 
関ヶ原の戦いの吉川広家陣跡(岐阜県不破郡垂井町)

9月15日の本戦には西軍として参加したものの、家康に内通していた広家は南宮山に布陣、総大将の毛利秀元らの出陣を阻害する位置に陣取って毛利勢の動きを拘束した。あくまで西軍に加勢しようとする恵瓊や長宗我部盛親長束正家の使者が来訪するが、広家は霧の濃さなどを理由に出撃を拒否、秀元にも「これから弁当を食べる」と言って要求を退けたと言われる。これを指して、「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれた。

結果は家康率いる東軍勝利となり、毛利隊は戦わずに戦場を離脱せざるをえなくなった。合戦直後には長政に使者を立て書状を送っている。9月17日には長政と福島正則の連署で、「輝元は名目上の総大将に担ぎ上げられたに過ぎないから本領を安堵する」旨の書状が大坂城の輝元に送付され、広家としてはこれで輝元の内意と合って毛利氏も安泰と考えていた。

毛利氏改易の危機

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10月2日になって、黒田長政から以下の内容の書簡が届いた。

家康からの毛利領安堵の密約は、輝元が否応なしに総大将に担ぎ上げられた場合のみである。ところが、大坂城から発見された西軍の連判状の数々に輝元の花押があった[注釈 6]。困った事だ。毛利の所領は没収のうえ改易されるであろう。
貴殿の忠節は井伊直政、本多正信もよく承知しており、毛利領のうち一、二ヶ国を与えるべく、ただいま家康に対して交渉中である。
直政に呼ばれたら、すぐに行って下さい。お供は数人で十分で、槍などは無用です。これは決して罠ではありません。

毛利宗家の本領安堵は反故とされ、その後、広家には周防長門の2ヶ国を与えるとの沙汰があった[15]

10月3日、広家はこの沙汰に対して、毛利本家存続のために家康に以下の内容の起請文を提出した。

私に対する御恩顧は後世まで決して忘れませんが、何卒毛利家という家名を残して戴きたく御願い申し上げます。
この度のことは輝元の本意ではありません。輝元が心底人間が練れてなく分別がないのは、各々ご存知のことではないですか。
輝元は今後、家康様に忠節を尽くしますから、どうかどうか毛利の名字を残して下さい。
輝元が処罰されて自分だけが取り立てられては面目が立たないので、私にも輝元と同じ罰を与えて下さい。
もし、有り難くも毛利の家を残していただけたなら、輝元はこの御恩を決して忘れません。
千が一万が一、輝元が徳川に対して弓引くようなことがあれば、たとえ本家といえども、輝元の首を取って差し出す覚悟でございます…云々[15][注釈 7]

広家のこの起請文に対し、家康は10月10日になって、輝元に対し広家に与えられるはずであった周防、長門の2ヶ国を毛利宗家に安堵すること、毛利輝元・秀就父子の身命の安全を保障する、旨の起請文を発行した[注釈 8]

広家の行動そのものは合戦前の7月15日に秀元や安国寺恵瓊の方針に不安を抱く福原広俊・宍戸元続益田元祥熊谷元直ら重臣によって秘かに行われた会議の結果を受けたものであるが、移封後は毛利氏の家政の第一線から退くことになる。

毛利宗家では、関ヶ原後、安芸国ほか山陽・山陰8か国120万5千石から防長2か国29万8千石への減封による減収を補うため、領内の徹底した検地に着手するが、山代慶長一揆吉見広長の反乱など、減封に伴う混乱が起こっている。慶長15年(1610年)に毛利宗家(長州藩)は幕府の承認を得て、36万9千石に高直しが認められた。

岩国領主

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防長への減封を受諾した毛利氏は、長門国の一隅に本拠を置いた(長州藩)。藩内を分割して長府徳山の分家(後に清末の孫家が加わる)と岩国吉川領を置き、広家には本拠地萩からもっとも遠く東の守り、本家及び直系一門の盾の位置となる岩国3万石の所領が与えられて岩国領の初代領主となった。(毛利宗家の高直しのあとで、岩国領も6万石に高直しされる)

長府・徳山・清末の三家は支藩として正式に諸侯に列せられたが、岩国領は藩とされず、吉川氏は長州藩からは家臣として扱われた。一方、家康からは岩国築城を許され、幕府からは大名としての扱いを受け、江戸に藩邸を構え参勤交代も行われるという複雑な立場となった。この微妙な立場は岩国城破却問題や2代目から11代目までの岩国領主の肖像画が描かれないなど、吉川氏に様々な苦渋をなめさせることになる。

ちなみに、支藩筆頭の名誉を担った西の長府藩主は関ヶ原で毛利勢の総大将として布陣しながら広家の内通に戦闘参加を阻まれた毛利秀元である。秀元は幼少の藩主・毛利秀就の輔佐のため長州藩の執政となり、筆頭重臣の地位にあった福原広俊と権力を争う事になり、広俊は広家に助けを求めた。広家は関ヶ原の一件を理由に表向きには動かなかったものの、反秀元派重臣の後ろ盾として動く事になる。

慶長10年(1605年)に熊谷元直粛清事件(五郎太石事件)が発生するが、広俊はこれを輝元と迅速に鎮圧すると共に、秀元・広家の両者に対して和解を強硬に申し入れて、両者はこれに応じている。だが、その後も秀元と広俊(及び背後の広家)との確執は続く事になる。この間、広家は慶長6年(1601年)、同8年(1603年)、同9年(1604年)、同11年(1606年)に徳川家康・秀忠父子と謁見している。

ところが、大坂冬の陣の際に毛利秀元が輝元・秀就らと極秘に内藤元盛(佐野道可)を豊臣方に派遣し、この事実を広家や他の重臣には一切秘密にしていた事を知った広家は激怒して慶長19年(1614年12月22日に隠居して嫡男の広正に家督を譲り、福原広俊もこの問題の処理後の元和2年(1616年)に藩の政務から退いた。以後、藩政は秀元と益田元祥・清水景治らによって運営される事となる。

既に豊臣政権において独立した大名として認められていた秀元は長府家の家格上昇を図りながら藩政運営を行うことになり、対立関係にあった吉川氏の勢力削減を目論んだ。元和の一国一城令を理由とした岩国城を破却などもこうした秀元の政策に基づくところが大きい。こうした秀元の方針に対して広家は表立っては沈黙していたものの、福原広俊らと共に秀元への対抗姿勢を示している。秀元は徳山藩主であった秀就の弟・毛利就隆を取り込んで秀就に反抗的な態度を取り続け、それに対抗すべく秀就は広家を味方にしていた。

もっとも、元就時代より吉川氏は庶流の筆頭として家臣団を統率するのが役割であった。一方、一度は宗家の後継となった秀元の長府毛利家がその経緯[注釈 9]を盾に、他の分家との差別化と家格の上昇を図って宗家に準じた地位を確保しようとした側面がある。実際、輝元や広家の死後の寛永8年(1631年)に秀元はその専横を非難されて長州藩執政の地位を失って失脚し、後任の執政に就いたのは広家の子・広正であり、広正の正室に輝元の娘・竹姫を娶ったのは移封後のことである。

広家は家督を広正に譲って隠居した後も岩国領の実権は握り続け、元和3年(1617年)には188条にも及ぶ領内の統治法を制定するなど岩国の開発に力を注ぎ、実高10万石(最盛期には17万石とも)とも言われる岩国領、そして現在の岩国市の基礎を築いた。寛永2年(1625年)9月21日に死去。享年65。

なお、広家の次男で吉見広頼の養子となっていた吉見政春が後に毛利姓を名乗ることを許され、毛利就頼と改名して長州藩一門家老の大野毛利家を創設している。

系譜

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吉川広家を主題とする作品

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小説

テレビドラマ

脚注

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注釈

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  1. ^ 長州藩の主張によれば、広家はあくまでも毛利氏の家老であるため、岩国藩主と呼ぶのは誤りであるとしている。
  2. ^ 宮庄氏は、元々は大朝新庄の東の宮庄(現在の北広島町新庄)に基盤を置く厳島神社一族であったが、婚姻関係等を通じて吉川一族化したとされる。興経幼少期には、宮庄資益吉川経世とともに「役人」を勤めたが、享禄2年(1529年)に国衆石見高橋氏が滅亡すると、資益も粛清されたと思われる。その跡は宮庄九郎兵衛尉が継いだようだが[2]、他の資料に全く登場しないため、元春の吉川氏相続に処分された。天正7年頃には経言(広家)が「当家之庶子宮庄家」を相続[3][4]した。そのあと経言が親類衆として独立したため、福原氏出身の春真が宮庄家を相続した。『陰徳太平記』巻16「元春吉川家相続之事」によると、元春は宮庄下野守・同備前守が興経と一味したため、所領を没収して福原元正に与え、宮庄氏を名乗らせたとしている。宮庄氏の粛清と福原氏の相続は認めつつも、福原元正は同時代資料に確認できないこと・福原氏出身の人物が相続した家を吉川経言が相続するというのも解せないので福原氏出身の人物による襲家は経言の後であると木村信幸は指摘している。[5]
  3. ^ 『陰徳記』。ただし「吉川広家覚書」(『吉川家文書』)には、恵瓊との確執を示す資料は含まれておらず、広家が自領の伯耆国の銀山について恵瓊に斡旋を依頼する書状(「吉川家文書」)や、関ヶ原の合戦の直前の慶長5年8月20日に毛利秀元と益田元祥の家臣同士が喧嘩した際には、広家・恵瓊が連署した書状を元祥に送っており、二人が不仲だったとは考えにくいとする意見もある[11]
  4. ^ 通説では広家と長政の懇意によるとされるが、実際には長政の父・孝高は毛利氏に対する豊臣政権の取次を務めており、孝高に代わって取次となった石田三成が失脚したため、再び黒田氏と関係を持ったのである[10]
  5. ^ 『吉川家文書』にも広家宛に同じ内容のものがある。
  6. ^ 連判状だけでなく、輝元は四国から九州北部にかけての攻略を指揮していた[14]
  7. ^ 当該期の毛利氏関係の文書には見られない「本家」という表現を用いてること、これらの文書の原本は吉川氏だけにしかなくて黒田氏には伝来せず、毛利宗家が編纂した『毛利三代実録考証』や『大日本古文書』にも収録されていない。そのため、これらの手紙は吉川氏が偽造した偽文書とする研究者もいる[16][17]
  8. ^ 歴史家の本郷和人は、家康から正面から敵対した毛利氏は当時の常識ではこの時取り潰されるのが当然であり、この広家の必死の嘆願が毛利氏を窮地から救ったと評価している[18]
  9. ^ そもそも秀元の独立が承認されたのは、関ヶ原の戦いの2年前である。また、秀元の系統には万一の際の毛利宗家継承権があり、実際に2人が宗家に入嗣している。
  10. ^ 現在の山口県岩国市錦見。

出典

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  1. ^ 吉川広家』 - コトバンク
  2. ^ 『吉川家文書』第371号
  3. ^ 『吉川家文書』第693号
  4. ^ 『吉川家文書』第982号
  5. ^ 木村信幸「戦国後期における吉川氏の権力後世―親類衆・奉行人を中心として―」『史学研究』259号、2008年。 /所収:光成 2016
  6. ^ 光成 2016, pp. 10–19, 光成準治「吉川広家をめぐる三つの転機」.
  7. ^ 『小早川家文書』(村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年、29頁)。山口県文書館「毛利家文庫」所蔵文書(同『同』、38頁)。
  8. ^ 『立花遺香』(淺川聞書)附・蔚山の後詰・十時但馬惟由覚書、立花丹後鎮久覚書)
  9. ^ 光成 2016, pp. 29–32, 光成準治「吉川広家をめぐる三つの転機」.
  10. ^ a b 津野倫明「豊臣~徳川移行期における<取次>―公儀-毛利間を中心に―」『日本歴史』634号、2001年。 /所収:光成 2016
  11. ^ 渡邊大門『戦国の交渉人』洋泉社、2011年、200-203,235頁
  12. ^ 『毛利家文書』[注釈 5]
  13. ^ 『毛利家文書』
  14. ^ 光成準治『毛利輝元 西国の儀任せ置かるの由候』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2016年5月、272頁。ISBN 462307689X 
  15. ^ a b 『吉川家譜』
  16. ^ 光成 2016, pp. 34–36, 光成準治「吉川広家をめぐる三つの転機」.
  17. ^ 光成準治 『関ヶ原前夜』 日本放送出版協会、2009年、287-288頁。ISBN 978-4-14-091138-9
  18. ^ 五味文彦編著『日本の中世』(放送大学教育振興会、2007年、88-91頁)

参考文献

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関連項目

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