司馬攸
司馬 攸(しば ゆう、正始7年(246年)[注釈 1] - 太康4年3月14日(283年4月27日))は、西晋の皇族。字は大猷、小字は桃符。諡は献。司馬昭の三男で、伯父の司馬師の猶子でもあった。初代皇帝の司馬炎の同母弟[1]。他に同母兄の司馬定国(遼東悼恵王)と同母弟の司馬兆(城陽哀王)・司馬広徳(広漢殤王)らがいた。しかし、みな早世してしまったために、 彼が長兄の司馬炎に次ぐ有力後継者になったという。生母は王元姫(王粛の娘)。妻は賈荃(賈充の娘)[1]。
生涯
編集正始7年(246年)[注釈 1]、司馬昭と王元姫の子として生まれる。幼い頃から聡明で、司馬懿はいつも「この子は大器である」と言って将来を嘱望されていた[1]。また、司馬昭は自分の寝台を撫でて「ここは桃符(司馬攸の小字)の場所だよ」と言うほど、司馬攸を愛していた。司馬師に男子が生まれなかったので、その養子となるも、正元2年(255年)に司馬師は死去する。司馬攸はひどく悲しみ、その様子に人々は心打たれたという。その後も、司馬師の妻の羊徽瑜に孝養を尽くした。
長じた司馬攸は、物静かで穏やかな人柄で、賢士に親しみ人を慈しんだ。また、学問を愛して文章にも巧みであった。才能や人望は、兄の司馬炎に優っていたという。成人すると散騎常侍・歩兵校尉を歴任し、五等爵が制定されると安昌侯に叙せられて衛将軍となる。
景元5年(264年)3月、父司馬昭が晋王となると、その後継者として司馬炎よりも司馬攸を後継者に選ぼうとしたという。しかし、長幼の序を重んじる重臣一同の反対に遭い、実現しなかった。この際、司馬昭は「自分は今兄上(司馬師)様の死によって相国の地位に仮にいる。だから自分の死後、大業はその跡継ぎである攸に返すべきである」「これは景王(司馬師)の天下である。どうして自分に関わることができようか」と述べたとされる[2]。
咸熙2年(265年)8月、父の司馬昭が病死する。病床の司馬昭は、司馬攸の前途を慮ると不安でならず、また兄帝に冷遇された曹植の境遇を思い出し、臨終の際に司馬攸の手を執って、司馬炎に預けた。父を喪った司馬攸の悲嘆は一方ならず、心痛のあまり衰弱し、人々が食物を勧めても食べられなくなった。母の王夫人は「もし他の疾を得たらどうするのですか。一つのことを専守してはなりません」と諌めたが結果は同じで、ついに嵆喜(嵆康の兄)が「匹夫ですら命を惜しみ、先祖を祭ります。まして、天下の大業を担い、帝室を輔ける重任を負う身のあなたがそれでは、どうするのですか」と無理やり食事を食べさせた。嵆喜が辞した後、司馬攸は「嵆司馬は、私に葬礼の節度を忘れさせまいとしたのだろうな」と語った。
晋王を継いだ司馬炎は、同年12月に魏帝曹奐から禅譲を受けて皇帝となり、司馬攸は斉王に封じられた。直接に領国へ赴くことはなかったが、斉国の文武諸官、士卒にいたるまで、きちんと給与を分配し、疾病や葬儀の備えに充てさせた。また、水害や旱魃が起きると施しを行って民を救い、豊年に上乗せすればよいとして租税の二割を減らしたので、民はこれを幸いとした。当時、王族の衣食は国庫から出ていたが、司馬攸は自領の税収だけでまかなえるとして、支給を断ってくれるように上奏したものの、許可されなかった。
後に驃騎将軍に任じられ三公と等しい待遇を受けたが、司馬攸は慎ましい態度を崩さず、何事も信を以て当たった。また、公府が下級役人の動向に暗いのを嘆かわしく思い、信賞必罰を明確にして政事の引き締めを行ったところ、朝廷の内外は粛然とした。後に武帝が驃騎の兵を罷免したところ、数千人もの兵が司馬攸を慕って去ろうとせず、武帝は再び兵を返還した。
司馬攸は政治に精励し、『晋書』は「攸、朝政の毎に大いに議し、悉く心して之を陳ぶ」と伝えている。やがて鎮軍大将軍に転任し、太子少傅を兼ね、ややあって太子太傅となる。司馬攸は皇太子司馬衷(後の恵帝)に向けて「……人を安んじ祀を承ぎ、祚は延び統は重し。故に太子の立つを援く。……夫れ仁に親しめば功成り、佞を邇づくれば国傾く。故に保相の材は、必ずや賢明なるを択ぶ。……親を固むるは道を以てし、恩を以て固める勿れ。身を修むるは敬を以てし、尊きを以て託する勿れ。自ら損なうは余有り、自ら益するは弥(いよいよ)昏し。庶事に恤せざるを以てするは不可なり、大本に敦せざるを以てするは不可なり。……」との箴言を与えた。
泰始4年(268年)、母の王太后が逝去。太后は自らの病篤くなったとき、病床に武帝を呼び、「攸は情の烈しい子ですから、そなたのことを冷たい兄だと感じています。私がいなくなった後、そなたと攸が相容れられなくなるのが恐ろしい。そなたに攸のことを託しますが、私の言葉を忘れてはなりませんよ」と泣きながら頼んだという。
咸寧2年(276年)、賈充に代わって司空となる。侍中を兼ね、また太子少傅は元のままであった。
武帝の晩年、その皇子たちはいずれも繊弱であり、朝廷の内外は司馬攸に期待を寄せており[2]、皇位を継がせるか暗愚な皇太子司馬衷(恵帝)の輔弼をして実権を掌握する事を望んだ[3]。中書監荀勗・侍中馮紞らは常々武帝に媚びへつらっており、司馬攸は平素から苦々しく思っていた。荀勗と馮紞は、司馬攸が皇嗣となれば身の破滅であると恐れ、武帝に言った「陛下ご万歳(崩御の暗喩)の後、太子はお立ちになれません」。武帝が「なぜだ」と問うと、荀勗は「百官はじめ、朝廷の内外は皆、斉王殿下に心を寄せております。どうして太子がお立ちになれるでしょう。陛下が試みに、斉王殿下を領地へお出しになろうとなされば、必ず朝廷を挙げての反対に遭いましょう。それが、私の申し上げていることの印です」。馮紞はまた言った「陛下が諸侯を領地へ赴かせ、五等の制を成そうとなさるなら、まずはご親族から始められませ。それには、斉王殿下より陛下に近しい方はおられません」。
武帝は荀勗の言葉を信じ、また馮紞の進言を容れて、太康3年(282年)に司馬攸を大司馬・都督青州諸軍事に任命し帰国を命じた。司馬攸はこの措置に喜ばず、「私は、時代を正すには用済みとなってしまった」と言った。また、荀勗の予想通り、武帝の叔父である扶風王司馬駿や王渾・曹志(曹植の子)など多くの朝臣が武帝に対して次々と反対の意見を述べた。これに対して武帝は「これは帝室内部、しかも兄弟間の問題であり他人にとやかく言われるものではない」と激怒した[4]。さらに諫言を成した者を最初は死刑にしようとしたが、夏侯駿らの反対で左遷・免官とした。
太康4年(283年)、武帝は司馬攸の赴任のため盛大に文物を整えさせたが、司馬攸はこれが荀勗たちの策謀であることを知ると、怒りのあまり病を発した。亡き母后の陵を守ること(=官を退く)を望んだが、武帝は許さなかった。しかも、武帝が派遣した典医たちは、武帝の意におもねって「王に病気はない」と偽って報告していたため、司馬攸の病は悪化する一方であったのに、任地への出立を強いられた。司馬攸は無理をして威儀を整え、病で苦しんでいても日常と変わらぬかのように振舞った。このため、かえって武帝は、病ではないのではないかと疑った。それから間もなく(出立の2日後[2])、司馬攸は宿所で血を吐いて、38歳[注釈 1]で亡くなった。さすがに気が咎めたのか慟哭する武帝に、馮紞は言った「斉王は名が実に過ぎたのに、天下の心が帰しておりました。今、王が自滅してくれたのは国家の幸いであって、陛下が悲しまれることではございません」。そこで、武帝は泣くのをやめてしまった。また、司馬攸の子の司馬冏が、武帝に「父の病は医師どもが誣告していたものです。詔で誅して下さい」と訴えると、武帝は要求を聞き入れて典医たちを誅殺した。
人物
編集『晋書』斉献王伝は、次のような文で司馬攸の人となりをまとめる。「司馬攸は礼で以て自らを戒め、過つことはほとんどなかった。人から書物を借りると、その誤写をきちんと直してから返した。行き届いた性質は人に過ぎ、自分の諱に触れられると涙を流した。武帝であっても弟を敬して憚るところがあり、必ず言葉を択んで発していた。」
なお、福原啓郎は司馬攸を巡る一連の事件(「斉王攸帰藩事件」)について、司馬炎が天下の平定後、外戚(楊駿)や側近(荀勗・馮紞)が重用され、輿論が無視されて政治が私物化されていくことに危機感を抱いた朝臣たちが、皇帝に近くかつ輿論の期待が高い司馬攸の帰国を許せば彼よりも皇帝とは疎遠な関係にある自分たちも外戚や側近らに排除されることを恐れて司馬攸の帰国反対論につながったとする。更にこの帰国反対運動は武力抗争に至らなかっただけでその後に発生する「八王の乱」における挙兵の過程と同じ構図であったと指摘して、八王の乱の端緒をなす事件であったとする[5]。
宗室
編集子
編集孫
編集司馬蕤の子
編集司馬冏の子
編集子孫
編集- 司馬暠(司馬柔之の玄孫)