古川 泰龍(ふるかわ たいりゅう、1920年〈大正9年〉8月23日 - 2000年〈平成12年〉8月25日)は、日本真言宗僧侶

死刑囚冤罪撤回運動に尽力した。

生涯

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真言宗の僧侶の子として、佐賀県に生まれる。

高野山専修学院を卒業し、佐賀県藤津郡塩田町(現・嬉野市)の真言宗常在寺の住職となる。1952年から福岡刑務所で死刑囚教誨師を務める。福岡事件の2人の死刑囚と面会する。現場に赴き検証を進め冤罪と判断する。1961年から彼らの無実を訴えるため本格的に助命運動をはじめる。1975年に、完全無罪を主張している1人は、死刑執行となり、実行したが防衛行為であると主張している1人については、無期懲役となり、1989年仮釈放となるが、古川泰龍は身元引受人となる。40年近く、福岡事件の真相を求める運動で、先頭に立つ。真相究明書『白と黒のあいだ』を、河出書房から出版する。

熊本県玉名市立願寺に転居。1964年1月2日、冤罪救済支援のため訪ねてきた自称「弁護士」を、当時11歳の娘が強盗殺人指名手配犯の西口彰と見破り、警察に通報、翌日の逮捕に協力する(西口彰事件)。このいきさつが、フジテレビ1991年にドラマ化される[1]。このドラマでは、古川泰龍がモデルの人物を河原崎長一郎が演じる。逮捕後も、西口彰と手紙のやりとりを行い、書物の差し入れもする。

1965年ベトナム戦争の泥沼化で、アメリカ戦争介入に反対する市民運動が世界各地に起こるが、「ベトナムに平和を!市民連合」の玉名の運動、「玉名ベ平連」の結成に家族で参加する[2]。1969年4月のベ平連九州地区懇談会の場所を提供するなどする。

1969年、「神戸シュバイツァーの会」会長の向井正からアルベルト・シュヴァイツァーの遺髪を授かり、1973年、「生命山シュバイツァー寺」を開山する。1986年に、この寺で生活したイタリア人神父のフランコ・ソットコルノラ(Franco Sottocornola。イタリアに本部を置く聖ザベリオ宣教会の会員)との話で、カトリックの別院を設ける。(現在は【真命山・諸宗教対話センター】《まことのいのちのやま・しょしゅうきょうたいわセンター》に改称している)[3][4]

1984年、「日中戦争強制労働殉難者の慰霊塔」を建立する。中国に行き、南京大虐殺記念館での犠牲者の慰霊法要を行う[5]

仏教の僧侶として、キリスト教関係者との対話も重視している。ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世とも3回面会している[4]

2000年8月25日に死去。80歳没。

著作

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  • 『福岡、中国人闇ブローカー殺し殺人請負強盗殺人事件真相究明書 - 九千万人のなかの孤独』(コスモス社、1963年→花伝社、2011年)
  • 『白と黒とのあいだ - 福岡誤殺事件』(河出書房新社、1964年)
  • 『「死」は救えるか 医療と宗教の原点』(地湧社、1986年) ISBN 4-88503-043-9
  • 『歎異抄 - 最後の一人を救うもの』(地湧社、1988年)
  • 『叫びたし寒満月の割れるほど - 冤罪死刑囚と歩む半生』(法蔵館、1991年) 4-8318-8070-1
  • 『「他力」を明かす - 続歎異抄・念仏のこころ』(地湧社、1992年) 4-88503-093-5

論文

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脚注

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外部リンク

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