南部 球吾(なんぶ きゅうご、1855年10月15日安政2年9月5日〉 - 1928年昭和3年〉11月4日)は、明治から大正に活動した日本鉱山技術者[1][2]

来歴

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越前国福井藩士で、維新後官吏となった南部広矛の次男として生まれる[1]

慶応2年(1866年)、藩の英学者の瓜生寅のもとで英学を修めた[1]1869年(明治2年)、開成学校に入学する[1]1870年(明治3年)、大学南校に移り化学を専攻した[1]

1875年(明治8年)、文部省の第1回アメリカ合衆国への留学生となり、長谷川芳之助とともにコロンビア大学鉱山学を学んだ[1][2][3]1880年(明治13年)10月に帰国後、三菱に入社し、高島炭鉱の坑長を務め、工学博士となった[1][2]。後大夕張炭礦取締役や東京倉庫取締役[要出典]、本社鉱業部長兼炭坑部長、本社管事を務めた[3]

1928年11月4日死去[2]。享年74(満73歳没)[2]

家族・親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 南部球吾 - 『人事興信録』第4版(1915年、リンク先は名古屋大学大学院法学研究科の「人事興信録データベース」)
  2. ^ a b c d e 南部球吾」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E5%8D%97%E9%83%A8%E7%90%83%E5%90%BEコトバンクより2023年1月8日閲覧 
  3. ^ a b 麻島昭一 『三菱合資会社の経営者層 ―直営事業分離以前― 専修大学社会科学研究所 社会科学年報 第22号 1998年3月