千葉常重

平安時代後期の下総国の武将。千葉氏2代(実質的な初代)。平常兼の長男?三男?。下総権介、相馬郡司。房総平氏の惣領。子に小見胤隆

千葉 常重(ちば つねしげ)は、平安時代後期の下総国の武将。千葉氏第2代当主。千葉介平常兼の子で千葉常胤の父。下総権介恒重経重とも。

 
千葉 常重
時代 平安時代後期
生誕 永保3年3月29日1083年4月18日
死没 治承4年5月3日1180年5月28日
別名 恒重、経重、千葉介
官位 下総権介相馬郡司
氏族 房総平氏千葉氏
父母 父:平常兼、母:鳥海忠衡
養父:相馬常晴
兄弟 海上常衡白井常親常重千葉常実
臼井常康逸見常広匝瑳常綱
石毛政幹娘、海道忠衡娘?[1]
常胤小見胤隆椎名胤光
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生涯

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天治元年(1124年)叔父の相馬常晴[2]より下総国相馬郡郡司を譲られ、2年後の大治元年(1126年)に死去した父・常兼より同国千葉郡を継承して両郡を支配した。鳥羽法皇に対して、千葉郡の中心地域を荘園として寄進し(千葉荘)、後に千葉荘は八条院領に編入されて常重はその荘官となった。

大治元年6月1日、上総国大椎から千葉に本拠を移したとされ(『千学集抜粋』)[3]、千葉荘支配のために千葉城を築いて拠点とし、後の千葉氏の基礎を固めた。千葉市は、この日を「千葉開府の日」と定めている。

また、相馬郡にあった相馬御厨も大治5年(1130年6月11日伊勢神宮に対して寄進を行っている。保延元年(1135年)に18歳の嫡男・常胤に家督を譲った。だが、翌年7月15日下総藤原親通が「公田官物未進」を理由に常重を捕らえて目代紀季経に命じて相馬御厨の親通への譲渡証文を作成させて獄中の常重に対して署名を強要したのである。ところがこれに常晴の常重への相馬御厨譲渡の無効を主張する源義朝が干渉して親通と義朝、それに相馬御厨を強引に奪われた常重・常胤親子の三つ巴の争いに発展するのである。

脚注

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  1. ^ 佐々木紀一「出羽清原氏と海道平氏(下)」『米沢国語国文』第47号、山形県立米沢女子短期大学国語国文学会、2018年、4-33頁、ISSN 0287-6833NAID 120006651565 
  2. ^ 上総氏の祖。千葉氏の系譜に拠れば常兼は一度家督を常晴に譲り、後に常重がその養子の身分として家督を譲られている(ただし、上総氏の系図では常晴を長兄の平常家の後継者であるとしている)。だが、これが後に上総氏(およびそれを支持する源義朝)と千葉常胤との相馬御厨を巡る領有争いに発展することになる。
  3. ^ 丸井敬司『千葉氏と妙見信仰』岩田書院、2013年、42頁。 

参考文献

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外部リンク

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先代
相馬常晴
房総平氏歴代当主
-
次代
佐賀常澄