千屋村 (秋田県)
千屋村(せんやむら)は、秋田県仙北郡にあった村。現在の美郷町北部にあたる。
せんやむら 千屋村 | |
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廃止日 | 1955年3月31日 |
廃止理由 |
新設合併 千屋村、畑屋村 → 千畑村 |
現在の自治体 | 美郷町 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 東北地方 |
都道府県 | 秋田県 |
郡 | 仙北郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
7,040人 (国勢調査、1950年) |
隣接自治体 |
秋田県 仙北郡六郷町、畑屋村、高梨村、横堀村、横沢村、長信田村 岩手県 和賀郡沢内村 |
千屋村役場 | |
所在地 | 秋田県仙北郡千屋村 |
座標 | 北緯39度27分42秒 東経140度34分56秒 / 北緯39.46164度 東経140.58214度座標: 北緯39度27分42秒 東経140度34分56秒 / 北緯39.46164度 東経140.58214度 |
町村制施行当時の仙北郡 34.千屋村 | |
ウィキプロジェクト |
地理
編集東側は奥羽山脈によって岩手県と接し、奥羽山系真昼山地の主峰真昼岳は標高1,059メートルに達する。
本村は、奥羽山脈より流下する 真昼川・丸子川によってつくられた複合扇状地(千屋扇状地)上に発達した村であり[1]、谷口の扇頂部に浪花(元本堂・大坂・一丈木)、黒沢の集落が点在する。千屋の一暁・二暁周辺は扇央部にあたり、かつて「若林野」と呼ばれて馬産がさかんであった[2]。田沢疏水による開拓で現在は水田に変わり、直線道路が多い。田沢疏水による入植者は1940年(昭和15年)から1955年(昭和30年)ころまで89戸におよび、その出身地も村内外におよんでいる[2]。
村の中央から西にかけての本堂城廻・土崎は扇端部の湧水地帯で水田が卓越し、本堂城廻地区には中世城館本堂城がある[2]。また、奥羽山脈の山麓や天狗山丘陵では草地を利用した乳牛・肉牛生産がさかんである[1]。
近代には、みごとな杉並木・松並木と村の中心からの放射状直線道路がつくられたが、これは初期村政を主導した坂本理一郎(東嶽)によるものである。また、飯詰村の江畑新之助らによって一丈木ため池が造成されている。なお、このため池は1970年(昭和45年)以降、3年におよぶ「県営ため池等整備事業」によって整備された[3]。
旧高・旧領
編集明治初年の石高は以下の通り[4]。
村 | 旧高 | 旧領 | 旧県 | |
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黒沢村 | 261.648010石 | 秋田藩(久保田藩) | 秋田県 | |
元本堂村 | 616.538025石 | 秋田藩(久保田藩) | 秋田県 | |
本堂城廻村 | 951.549011石 | 秋田藩(久保田藩) | 秋田県 | |
大坂新田村 | 286.579010石 | 秋田藩(久保田藩) | 秋田県 | |
千屋村 | 1192.487061石 | 秋田藩(久保田藩) | 秋田県 | |
小荒川村 | 157.764999石 | 秋田藩(久保田藩) | 秋田県 | |
土崎村 | 1142.879028石 | 秋田藩(久保田藩) | 秋田県 | |
合計 | 4609.4451145石 | — | — |
歴史
編集菅江真澄『月の出羽路』によれば、「千屋」の名の由来は、平安時代後期に源義家が当地を訪れた際、祈願のため矢を千回射ったことによるというが、詳細は不明である[1]。
西端の本堂城廻地区と高梨村払田にまたがって古代城柵払田柵があり、厨川谷地遺跡など城柵関連遺跡も多い。浪花地区には、県指定史跡の一丈木遺跡がある。上述の真昼岳は信仰の対象として真昼山大権現社(三輪神社)が設けられ、中世には和賀氏庶流本堂氏の氏神として信仰され、また、平鹿郡の豪族であった小野寺氏からも崇敬された。本堂城廻地区には本堂氏の居城本堂城があり、県の史跡に指定されている[3]。また、山あいの善知鳥(うとう)地区は、キリシタンの殉教で知られている[1]。
歴代村長
編集歴代村長は以下の通り[2]。
出身有名人
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 最初に入植した開拓者は村内在住の大工坂本寛一郎ら11名であった。部落名の「暁」は平成16年2月11日、坂本喜之七千屋村長より命名されたものである。
出典
編集参考文献
編集- 近江正義「千屋」『秋田大百科事典』秋田魁新報社、1981年9月。ISBN 4-87020-007-4。
- 千畑村郷土誌編纂委員会(編) 編『千畑村郷土誌』千畑村、1986年2月。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会(編集) 編『角川日本地名大辞典 5 秋田県』角川書店、1980年3月。ISBN 4040010507。