十三段
十三段(じゅうさんだん)あるいは実力十三段(じつりょく - )とは、囲碁や将棋で歴史上傑出した実力を示した棋士を形容するのに用いられる言葉である。
囲碁将棋の段級位制は九段(名人の段位)が上限であり、十三段という段位は存在しない。しかし最高段位の棋士を大きく上回る棋力の持ち主であるとして十三段と称えられた。
十三段と呼ばれた人物
編集囲碁
編集将棋
編集出典
編集- ^ “本因坊道策(ホンインボウドウサク)とは”. コトバンク. 2023年9月24日閲覧。
- ^ a b 高部道平 編『名人上手打碁大観: 上達の源泉・実力の養成』荻原星文館、1939(昭和14)年、76頁。doi:10.11501/1109070。(オンライン版当該ページ、国立国会図書館デジタルコレクション)「四世本因坊道策は、 (中略) 今に著名、俗に十三段といふ」
- ^ a b c 相田隆太郎『現代囲碁全書 第2巻 本法型布石の打ち方』大泉書店、1959(昭和34)年、337頁。doi:10.11501/2468050。(オンライン版当該ページ、国立国会図書館デジタルコレクション)「名人、四世本因坊道策は、『碁聖』と呼ばれる不世出の偉人、 (中略) 俗に十三段と呼ばれた程、抜群の碁力を持っていた」
- ^ a b 雁金準一、高部道平、小野田千代太郎『囲碁大観』誠文堂〈大日本百科全集 第29〉、1928(昭和3)年、383頁。doi:10.11501/1242307。(オンライン版当該ページ、国立国会図書館デジタルコレクション)「本因坊道策と云へば俗に十三段打つたといふ碁聖である。」
- ^ “大橋宗英(おおはし そうえい)とは”. コトバンク. 2023年9月24日閲覧。
- ^ a b 山本亨介『将棋文化史』朝日新聞社、1963(昭和38)年、164頁。(オンライン版当該ページ、国立国会図書館デジタルコレクション)「九世名人宗英 (中略) この間の事情は、つぎの『将棋雑爼』の記録に明らかである。/――大橋宗英は十三段の力があった、という。」
- ^ a b 大崎熊雄『今人古人の名局: 将棋定跡的の解説』宝文館、1931(昭和6)年、142頁。doi:10.11501/1174701。(オンライン版当該ページ、国立国会図書館デジタルコレクション)「なにしろ実力十三段ありと言はれ鬼の宗英の名をほしいまゝにした彼なのであつた。」
- ^ a b 飯塚勘一郎『将棋名匠の面影』信正社、1937(昭和12)年、12頁。doi:10.11501/1220364。(オンライン版当該ページ、国立国会図書館デジタルコレクション)「近代将棋の父として、実力十三段と云はれる鬼宗英」
- ^ a b 坂本一裕「名匠のこまあと (第4回)」『近代将棋』第21巻2号(通巻239号)、近代将棋社、1970年2月、96頁、doi:10.11501/6046950。(オンライン版当該ページ、国立国会図書館デジタルコレクション)「現存者はさておき、宗英が古今の第一人者たることは衆目の見る所ではあるまいか。世に鬼宗英と呼ばれ、実力十三段の称があったことから、その強さも推察されよう。」
- ^ a b c 升田幸三『勝負の虫』朝日新聞社、1960(昭和35)年、14頁。doi:10.11501/2492714。(オンライン版当該ページ、国立国会図書館デジタルコレクション)「幕末のころ、江戸に天野宗歩(一八一六 - 一八五九年)という将棋指しがいた。幕府の庇護をうける将棋家元の人でないので棋級は七段に終わっているが、実力十三段といわれていた。 (中略) 宗歩は名人より香車は強かった、という。しかし、わたしは、実際に名人に香車をひいて勝つようになってみたい、と思っていた。」
- ^ a b c 大崎熊雄『今人古人の名局: 将棋定跡的の解説』宝文館、1931(昭和6)年、245頁。doi:10.11501/1174701。(オンライン版当該ページ、国立国会図書館デジタルコレクション)「段位は
纔 か七段に止つたが、宗英と共に棋聖と崇敬され実力正に十三段と称せられた天野宗歩」 - ^ a b c 山本亨介『将棋文化史』朝日新聞社、1963(昭和38)年、198頁。(オンライン版当該ページ、国立国会図書館デジタルコレクション)「宗歩は御城将棋には出勤したが、将棋家の人でないために棋級は七段に終った。しかし、棋力抜群、実力十三段といわれ、後代の人々は宗歩を追慕して“棋聖宗歩”と呼んでいる。」