北条綱重

戦国武将。北条幻庵の次男。三代目武蔵小机城城主。

北条 綱重北条 氏信(ほうじょう つなしげ/ほうじょう うじのぶ)は、戦国時代の武将[1]北条幻庵(長綱)の次男。氏信輩行名新三郎[1]。兄弟には北条長順鶴松院吉良氏朝室)がいる。子は北条氏隆、妻は西園寺公朝の娘[1]。3代目の武蔵小机城城主[1]。『喜連川文書』によると、北条氏康和歌の添削を依頼するほど、和歌の造詣が深かったとされる[1]

 
北条 綱重/北条 氏信
北条綱重像
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 永禄12年12月6日1570年1月12日
別名 輩行名:新三郎
戒名 三光院殿孝誉良玄大居士
墓所 祐泉寺静岡県三島市
主君 北条氏康
氏族 桓武平氏伊勢氏後北条氏
父母 父:北条幻庵
兄弟 三郎綱重長順鶴松院吉良氏朝室)、女(上杉景虎正室のち北条氏光室)
西園寺公朝の娘
氏隆
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生涯

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生年は不明だが、北条幻庵(長綱)の次男として生まれる。

永禄3年(1560年7月20日、兄の三郎が夭折したため、父・幻庵より家督を譲られ、永禄6年(1563年)に小机城主となる。

永禄11年(1568年)に甲相駿三国同盟を結んでいた武田信玄駿河侵攻すると、北条氏は今川氏に助勢することになり、駿河に出兵した際に蒲原城[注釈 1]を預かった。

永禄12年(1569年)12月、武田勝頼を総大将、武田信豊[注釈 2]山県昌景らを大将とした武田軍が蒲原城に襲来。北条軍では、綱重や弟の長順をはじめとする1000余で篭城するが、武田勝頼や武田信豊の猛攻で激戦となり、同日中に落城した。この時の戦いで綱重は真田幸隆信綱親子率いる真田勢に討ち取られたという(真田文書)[1]、その他に、綱重の弟の長順を始めとして狩野新八郎清水太郎左衛門笠原為継荒川長宗ら蒲原城の城将も悉く討死した。

 
北条新三郎の墓
静岡県三島市の祐泉寺)

墓所は静岡県三島市の祐泉寺。戒名は三光院殿孝誉良玄大居士。家督は嫡男の氏隆が継いだ。

脚注

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注釈

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  1. ^ 現在の静岡県静岡市清水区
  2. ^ 武田信玄の弟である武田信繁の子。

出典

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参考文献

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  • 下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2006年。ISBN 4-490-10696-3